夏休み!

 本日で一つ、大仕事が終わりました。わーい、夏休み!というわけで、一ヶ月ヴァカンスとはゆかぬまでも、しばらく休みに入れます。やれやれ。

 今日、昼前に宮城で震度6という地震があり、その余波で東京も揺れましたが、何とワタクシ、震度4だったという地震に気がつきませんでした。 (^^;)
 ちょうど、地震があったとき、私は仕事先でA地点からB地点に移動の最中だったんですが、階段をどんどん勢い良く昇っていたせいか、全く気がつかず、目的の部屋に入ると、ラジオがついていて、そこにいる人々はわいわいと騒いでいる。「?なんだろ?」と思っていたら、「あ、はるるさん、今の地震、大きかったですねえ」「え?地震、ありましたか?」「えっ!?…あれを、気がつかなかったんですか?」ちょっと恥ずかしかったな〜。
 ところで、宮城県交通機関が止まったり、多くの人々が難儀なことになっているのでは、と先日の経験からちょっと心配しています。 

 と書いてすぐ、夏休み気分に戻ってしまいますが、このところ、俳句にちょっぴり興味を持ったところで、私の中に新たな疑問が湧いてまいりました。
 すなわち、俳句と川柳は何が違うのか。
 「三月の甘納豆のうふふふふ」は川柳ではなく、俳句だとされるのは何故なのか?
 それに対し、鶴彬の「手と足をもいだ丸太にしてかへし」(痛烈な反戦川柳で、こうした句のために鶴彬は特高に検挙され、獄死しています)や「ざん壕で読む妹を売る手紙」などは、どうして川柳であって俳句ではないのか。

 そこで思い出されたのが、目黒さんの『だからどうしたというわけではないが。』でありました。確か、この中に、それについて明確に書いてある本が紹介されていたはず。
 どれどれと、目黒さんの本をを引っぱり出して確かめてみますと、なるほど、榎本(追記:復本でした。失礼)一郎著『俳句と川柳』(講談社現代新書)からの引用で、すぱっとこう書いてありました。

発句(引用者注:俳句のルーツ)は、季語と切字(切れ)を必須の条件としたが、平句(川柳のルーツ)は季語を必ずしも必要としなかったし、切字(切れ)を断固拒絶する文芸だったのである。すなわち、季語のある川柳は存在し得るが、切字(切れ)のある川柳は存在しない。

 ふーん。そうかとは思うものの、素人の私には、まだ分かったような、分からないような。切字はともかく、切れって何?
 そして、ここで、榎本(追記:復本さんでした。失礼)さんは、切れの説明として坪内さんの「うふふふふ」の句を引いて説明してらっしゃるんですねー。
 それによると、甘納豆のまでが首部で、ここで切れており、その後、殆ど関係ないような「うふふふふ」が続いていて、しかし、この首部と「うふふふふ」の間には飛躍があるが蜘蛛の糸の如く、一縷のイメージでつながっているので、よい俳句、ということ…らしいです。で、川柳の場合はこういうことをしてはいけないということみたい。
 うーん、分かったような気がするけど、別の俳句を出されてどこが切れかと聞かれたら、答えられる自信はないなあ。

 なんだか、よく分かりませんが、ま、難しい話はさておいて(自分で話題にしたんだろうが)、とりあえず、私は夏休み気分の中、図書館から借りてきた、田辺聖子の『川柳でんでん太鼓』を読んでおります。

 「悪い猫聖書ばかりを読んでいる」なんて川柳があって、なんかおかしい。
 「膝の犬これが獣であるものか」なんて、そうそう、そうだよねーと犬派の私は深くうなずくのでありました。

 

川柳でんでん太鼓 (講談社文庫)

川柳でんでん太鼓 (講談社文庫)

 では。はるる