ある文明のあり方

 人間が作る文明や社会のあり方、人間の関係性の作り方にはいろいろあり得る、西洋的なやり方だけが人間の作り得る形なのではないとあらためて感じた記事から引用します。

 西アフリカでフィールドワークをされているという社会学松田素二氏の談話より。

http://www.toshiba.co.jp/elekitel/special/2002/02/sp_01_a.htm

 アフリカ人は文字を発明しなかったのではなく、主要な記録手段として文字を選択しなかったということです。つまり、文字を使わずに官僚制度を運用したり、記録を残したり、あるいは社会生活を円滑にするようなシステムを巧妙に創造し運用していたのです。彼らは、文字を知っていてもそれを使う必要を感じなかったわけです。
 
 アフリカ史の中で、その栄華を語り継がれている西アフリカの「黄金の国マリ」でも記録手段として文字を使っていませんでした。宮廷の書記などはアラビア語を使うわけですが、宮廷で記録を残す最もポピュラーな手段は、音楽や口承です。宮廷に、楽士と語り部がいっしょになったようなグリオという職業集団を作り上げていくのです。グリオは、たとえば国の歴史を叙事詩として詠じるわけです。それには能や狂言の言い回しのような型があり、今日まで、継承され、過去の出来事の記録がオーラルな様式で保存されてきたわけです。グリオは古代日本でいうと、『古事記』に出てくる稗田阿礼のようなものかもしれません。
 
 また、アフリカでは太鼓も伝達手段です。太鼓の音は、仲介者を置けば、相当遠く離れた場所まで伝わります。今でもアフリカの中央から西のジャングルに行くと、太鼓の音が聞こえてくることがあります。ジャングルの中では、たとえば獲物がいる位置や種類を、太鼓のリズムと音の高低で伝えることができるのです。西アフリカの宮廷では、そういう太鼓の音だけで、王国の歴史すら伝えることができました。

 
http://www.toshiba.co.jp/elekitel/special/2002/02/sp_01_b.htm

 第二世代の歴史家たちがかわりに注目するのは、たとえば東アフリカのサバンナ地域に典型的な、政府なき社会、国家なき社会です。国家なき社会というのは、ヨーロッパの進歩史観では原始共産制の社会です。生産力が上がるにつれて富の配分とともに階層が分化し、その支配階層の利益を守るための装置として、国家を作り出し文明が成立していくというのが進歩史観の国家観です。ですから国家なき社会というのは文明として認められないわけです。
 ところが、アフリカの社会に入って調査してみると、東アフリカのサバンナ地域は特にそうなのですが、政府なき社会、国家なき社会が今でも一般的なのです。


http://www.toshiba.co.jp/elekitel/special/2002/02/sp_01_c.htm

 南アフリカの場合、アパルトヘイトで悲惨な事件がいくつもありました。マンデラさんが1994年に出獄して大統領になり、そうした非人間的な人権侵害の歴史をただそうとするわけです。

 このような場合、従来の司法制度では、客観的事実を証明し、真相を究明して、加害者を処罰し、被害者を補償していくという方法がとられました。これは、ユーゴ紛争などを処理するために国際法廷で採用されている方法です。

 ところがマンデラさんはその方法をとらなかったのです。彼が採用したのは、真実和解委員会方式という方法です。その委員会は、1960年から1993年の間の2万件以上にものぼる人権侵害事件をとりあげました。そこで、不幸な歴史を裁き社会を癒そうと試みたのです。真実和解委員会では事実関係を調査するだけでなく、被害者と加害者が公の場で告白し、真実を追究していきます。ここにおいて、文書と口述と、どちらが真実かという問題が起きてきます。旧来の文書中心の歴史であれば、文書で証明されないと、いくら被害者が生々しく語っても物的証拠にはならないわけです。

 ところが、あるアフリカ人の判事が提案したことが真実和解委員会に取り入れられるのです。彼は、真実には2種類あるというのです。一つは、顕微鏡型真実、もう一つが対話型真実です。顕微鏡型真実というのは、あくまでも検証可能で、証拠があり、客観的に認証されているような真実、わたしたちが普通に思うような真実です。もう一つの対話型真実というのは、人々の語りの中で、相互に交渉し、討論する過程で、確認される真実です。

 従来の裁判、あるいは実証科学は、客観的真実、顕微鏡型真実だけを重んじるので、文書や物的証拠だけが証拠ということになります。そこでは、被害を受けた人の語りは情状酌量の材料になる程度の意味しかないわけです。ところが、真実和解委員会では、生の語り、対話型真実を重視しないことには、それまでボイスレスであった人々の思いはすくい上げられないし、双方の真の和解は成立しないとしたのです。

 この真実和解委員会が採用した方式は、何かもめごとがあったときにアフリカの村の長老たちが集まって討議するのと同じ方法です。対話する中で、真実が確定する、あるいは真実を創造するという言い方をします。これは、アフリカ的な真実へのアプローチです。
 
そうすることによって、被害者は癒され、加害者も許しを得ることができ、和解を成立させていくことができるというわけです。そこで被害者が加害者に許しを与え、そのかわり、社会、国家が被害者に補償していくのです。

http://www.toshiba.co.jp/elekitel/special/2002/02/sp_01_d.htm

アフリカの歴史や現在を知ることは、歴史学の問題だけでなく、現代に生きるわたしたちにも意味があることだと思います。特にアフリカの社会が優れているのは、他文化に対する距離のとり方、多文化共生の知恵と技法だと思います。アフリカは本来、多文化共生社会であり、その知識と技法には年季が入っているのです。

(中略)

 アフリカで、部族対立が原因で相互に無限の暴力が繰り返されているという報道がありますが、アフリカの場合には、もともと民族的な垣根は低いのです。 

 国境そのものが上から勝手に押しつけられたものだということもありますし。それ以外にも、「民族」同士が敵対していても、それぞれの民族を構成する一族のような小集団は、両民族のなかに同族もしくは友好協力関係にある同盟一族をもっているというような習慣もありました。つまり決定的な全面対立、紛争を予防するような、民族を横断した同盟関係、ネットワークを作り上げてきたのです。

 また、西ケニア社会の場合には、数人数家族単位で移動する人、土地の言葉で「流れ者」、「居候」と呼ばれる人たちの存在は日常的です。彼らは一族単位で頻繁に移動しました。そのため隣接する民族集団の中に同盟集団を確保するという関係を築くことは容易なことでした。これは民族対立を緩和するためのアフリカ社会の知恵だったのです。

 私が調査している地域でも、このような多文化共生のシステムは、いくつも発見することができます。たとえば、いろいろな宗教や言語が並存するシステムです。

 アフリカでは多民族が共生し、全面的に対立することを防ぐような仕組みを作り実践し、文化も共存させてきたわけです。これからのわたしたちの世界は、国家、民族、人種を越えて交流や交渉が持たれ、当然その過程で衝突も起こってきます。そうした危機をどのように回避するかという歴史的な知恵は、21世紀の社会に生きるわたしたちにとって、決定的に重要です。その豊かな知恵と経験を、アフリカ社会はもっています。アフリカを単に開発援助の対象として見るのではなくて、わたしたちは、そうしたアフリカの知恵を積極的に学んでいく必要があると思うのです。アフリカ史を学ぶことは、遠い世界の変わった出来事を学んで楽しむことではありません。現代を生きるわたしたちの先を照らす光明として、それはあるように思います。<2002.05>


 この記事の存在はミュンスター再洗礼派研究日誌というブログで知りました。

 はるる