自分自身を愛するように隣人を

 秋葉原の事件について、なんとなく考えている。
 
 いろいろとこの事件に関して読んだり聞いたりして、いろんな側面があるのだなあと思ったし、私も最初の反応は派遣の問題、格差の問題としての事件だった。
 しかし、今私にとって最も心にずしんとこたえているのは、彼が自分自身を愛することができなかったこと、その苦しみだ。

 彼のケータイの掲示板への書き込みを読んで、その自己評価の低さ、自分自身を受け入れられない言葉が、私の胸をちくちくと刺した。
 
 最も自分の身近にいる自分自身を好きになれないというのは地獄である。24時間一緒なのに嫌いなのだから。少なくとも私はそうだった。
 これは相当に苦しい。たまらなくいやなのに決して逃れられない。本当に逃れるためには死ぬしかない。

 おまけに、厄介な事には、たとえ人から愛を差し出されても、自分の価値は低いと思っているので、それを受け取れない。愛されるのに値しないと思っているので、それを自分の中に受け入れることが出来ない。

 愛が欲しいと思いながらいざとなったらそれを振り払っている。玄関払いしてしまう。

 そのくせ、自分に対するマイナス評価だけは心の奥深く、奥座敷にまで入れてしまう。そして、更に自分への評価を下げる。

 こうしていると自分に対する怒りと人への怒りが溜まる。しかも、これは自分や人を破壊したいという方向に動く怒りだから始末に困る。 
 この破壊はなによりもまず自分自身への懲罰だ。何もいいところのない自分を徹底的に罰さねばならない。それが自分一人の枠では納まりきらないと、他人を巻き添えにする形で自分自身への嫌悪と罰を表現する。

 かつての私はそういう傾向を持っていたと思う。

 加藤容疑者の心の動きがこの通りだったかどうか分からない。この通りだったとしても、彼のしたことは絶対に肯定できない。何の関係もないのに殺された被害者のご遺族や友人、知人の怒りと悲しみはどれほどかと思うと、苦しくなる。

 でも、彼が感じていたのではないかと(私が勝手に想像する)自己評価の低さが引き起こす苦しみに、私の心が向いてしまう。(こんな風に勝手な思い入れをされては彼も迷惑でしょうがね。)

 これは根本的には他人にどうする事も出来ない。人が差し出してくれる肯定的な言葉や愛を自分の中に受け入れるという決断は自分がするしかないから。

 自分を大切にすること。自分を愛すること。
 これはとっても大切なことなのに、今の日本社会は自己評価を下げさせる言葉で満ちているように感じられる。
 
 神が存在しない社会だから、人が自分を肯定してくれなければ、もう誰もよしとしてくれない。日本人の多くは、自分で自分をよしとするほど自我が強くないように見えるし。これは、苦しいよ。息苦しい。

 この苦しみに対して私に何ができるのだろう。
 それとも、何かできると思うことがもう傲慢なのだろうか。これは究極的には、神にしかどうにもできないことなのだろうし・・・。

 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」

 うぬぼれなどではなく、本当に自分をありのままでよしと受け入れて、肯定して、安心していることは、人間にとって本当に大事なこと、大切なことだ。それなしには、本当に人を愛する事は難しい。


 ところで、下の曲は、最近はまっているコンテンポラリー・ゴスペルのカリスマ、カーク・フランクリンによるLet it go。(知人が、一気に彼の全てのCDを貸してくれたので、それを日々聴いてます。)
※この曲の前に1分弱のinterludeがくっついています。

 “My momma gave me up when I was four years old
 She didn’t destroy my body but she killed my soul”

 と始まるこの歌。

 この歌は、親に愛されなかった子供の叫びを歌っている。神への叫びになっています。


下のは、let it goに一部使われている、Tears for Fearsの名曲(と私は信じてる)Shout。

 

 このグループは今、どうしているのでしょうかねえ。
 私は一時期、この歌ばっかり聴いていたときがある。叫んで吐き出したいものがあったということかなあ。
 いやあ、あの頃は私も若かったですよ、ふっ。今では上記のようなことに悩むこともない、おばさんとなりました。めでたし、めでたし(?)。
 

・・・うーむ、それにしても、ただのお気楽読書ブログのはずが、何を書いているのやら。明日には恥ずかしくて削除してるかも(^_^;)。

はるる