万葉集

 このところ忙しくて、更新のヒマがありませんでした。しかし、それでも読書をやめられないのが私の性分で、最近の就寝前の読書は、リービ英雄の『英語でよむ万葉集』です。

英語でよむ万葉集 (岩波新書)

英語でよむ万葉集 (岩波新書)

 私がアメリカにいた時、不思議だったのは、俳句がHAIKUになっているのに、短歌(もしくは和歌)は日本語という境界線を越えていないようだということでした。つまり、アメリカでも俳句を作って楽しむ人々がおり、俳句というものが、文学の一形態として、ある程度の場を英語の中で占めているのに対して、短歌(和歌)はTANKAにはなっていない、誰も短歌形式の詩歌を英語で作ろうとはしていないということが、謎だったわけです。人気の差は、如実に本屋で見ることができ、Bordersなどに行くと、HAIKUに関する本は何冊でもある(しかもペーパーバックで出てたりする)のに、和歌・短歌関係は、研究者以外、読まないのでは?と思うような本が一冊、二冊あるかなあ程度でした。
 俳句の方が、季語はあるし、より削ぎ落とした抽象的ともいえる表現形態だし、日本語が長い年月を費やして作り上げてきた詩的イメージの財産に依拠しているし、私には俳句の方がより日本語から出て行くのが難しいと感じられるのに、国境を越えているのは俳句だというのが、なんとも不思議なのです。
 それに対して、より情的で自分の感情を詠う和歌・短歌の方が、かえって日本以外で受け入れられていない。短歌を作る外国人というと、普通、日本語世代の台湾人とか、要するに「日本語人」の人々で、日本語以外の言語を母語とする人は、基本的にTANKAを作らない。何故なのか?なぜ短歌は日本語を越境できないのか?単に紹介が不足しているから?それとも、短歌は日本語から切り離せない要素を持っているのか?あるいは、短歌(和歌)の方が詩に近くて、西洋の詩と競合してしまい、別にいらないやということになるのだろうか?などなどいろいろ考えたものです。私は、こういう事情に疎いので、単に分かっていないだけなのでしょうが…。(知っている方がおられたら、教えていただきたいです。)

 なので、『万葉集』を英語に翻訳されたリービ英雄さんが書かれたこの本を見つけた時、何かわかるかもと思い、読み始めた次第。

 毎日少しずつ読みたい歌を選んで読んでいるので、まだなんともいえませんが、最初にリービさんが「世界文学としての万葉集」ということを書いているのが、とても新鮮でした。世界文学という視点をもって、『万葉集』を見たことは、私は今まで一度もなかった気がします。
 また、『万葉集』に詠われている感情や情景が、きわめて人類共通の普遍的なもので、英語に訳してしまうともとが日本語であったかペルシャ語であったか、フランス語であったか分からなくなるという歌もあれば、歌われているイメージが、日本語独自の季節の移り行きをとらえた「時間」を具象した歌もあるという指摘も、印象的でした。
 
 『万葉集」自体、私はきちんと読んだことがなかったので、今回、選択された歌からも、新鮮な刺激を受けました。すごいのは、現代短歌だけではなかった。いや、言葉の力、言霊を信じていた古代の歌の方が、より素晴らしい感じさえします。たとえは変ですけど、昔の、においもきつくて野生の力がみなぎっている、にんじんやほうれん草を食べたような気分。

 ところで、これは、衝撃的だった山上憶良の挽歌の一部です。

漸々(やくやく)に 形崩ほり 朝な朝な 云ふこと止み 霊(たま)きはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 吾(あ)が子飛ばしつ 世間(よのなか)の道

 英訳は次の通り。
 

Time slowly
ravaged his features,
morning after morning
he speaks less and less
until his life,
that swelled with spirit,
stopped.
In frenzied grief
I leaped and danced,
I stamped and screamed,
I groveled to the earth
and glared at heaven,
I beat my breast and wailed,
I have let fly the child
I held in my hands.
This is the way of the world!

 「吾が子飛ばしつ」。これには、本当に衝撃を受けました。もう、この言葉は生涯、脳裏から離れない、そんな感じです。リービさんが「見たことのない、日本語の絶唱」と書いておられるのもむべなるかな。
 この『万葉集』を英訳されたリービ英雄氏にはひたすら頭がさがります。世の中には、こういう異なる言語の架け橋になる召命(vocation)を持っておられる方々がおられるのですねえ。本当にありがたいことです。

 はるる