エクソフォニー

 多和田葉子さんの『エクソフォニー』を読了しました。多和田さんは、ハンブルク在住のドイツ語と日本語で小説を書いている方ですが、私はこの人に以前から関心があって、書いたものを読みたいなと思っていたのです。昨年、多和田さんの『犬婿入り』を読み、芥川賞受賞作品の表題作よりも、同時収録されていた「ペルソナ」に、より衝撃と感動と興味を覚えたものでした。(これについては、いつか書くかも。水村美苗さんとあわせて、考えたいことですが。)

 『エクソフォニー』は小説ではなく、副題にあるように母語の外に出るという多和田さんの体験を基にした言語をめぐるエッセイです。 

 

エクソフォニー-母語の外へ出る旅-

エクソフォニー-母語の外へ出る旅-

 エクソフォニーとは何か。多和田さんによると、「母語の外に出た状態一般を指す」言葉で、「自分を包んでいる(縛っている)母語の外にどうやって出るか?出たらどうなるか?」という発想で書かれた文学が、「エクソフォン文学」ということらしい。

 以前にも書いたように、私は母語である日本語に非常にべったりと頼っている人間で、アメリカに数年住んで、自分にとって異質な言語である英語で読み書き話すという体験をしたのも、別に自ら母語の外に出たい!と願ってやったことではありません。そのせいか、せっかくの機会だったのに、私は英語を自分の言語的無能さを裁く敵のようにみなし、自分を包んでくれている日本語の胎内から出ることを恐れて、遂に境界線を越えないで終わったような気がしています。
 しかし、一方では、英語で生きる体験の中には、自分自身の枠を押し広げること、日本語では思いもよらない発想に出会って自分を縛っていたものがほどけていく感覚、言葉の冒険を楽しむ思いがあったことも確かです。

日本人が外国語と接する時にはその言語を自分にとってどういう意味を持つものにしていきたいのかを考えないで勉強していることが多いように思う。すると、上手い、下手だけが問題となってしまう。

私の英語に対する態度はまさにこれで、結局私が英語の何にいじいじしていたかというと、自分の英語が上手いか下手か、この一点に全てはつきていました。はっきり言えば、自分の英語がアメリカ人の英語に近いかどうか、アメリカ人のように話せるか、書けるかということにだけ関心が集中していて、話しながらも、もう一人の自分が私の英語を常にチェックして、今のは下手だとか、これはまあまあと判定を下し、そのことに一喜一憂するという、そういう言語体験だった、ということです。
 この態度は、まさに『エクソフォニー』に描かれている言語体験とは対極をなすもので、我ながら情けない。私の態度は、要するに植民地根性だったということですから。ご主人さまに似たいとひたすら願って、自分がなくなっている状態。
 『エクソフォニー』には、こうした私の目を大きく見開かせ、全く別の言語への態度へと誘ってくれることが次々と出てきます。一番、私にとって本日の目からウロコだったのは、これです。

 長年その土地に暮らして、会話を重ねれば、いわゆるネイティブ・スピーカーと喋り方が似てきて、「なまり」がなくなってくる。しかし、なまりをなくすことは語学の目的ではない。むしろ、なまりの大切さを視界から失わないようにすることの方が大切かもしれない。田中克彦氏の『クレオール語と日本語』を読んでいたら、「発音のみならず、思想のナマリがなければ、その人はフランスの勉強をする理由はほとんどありません。そしてまた、なまること(原文には強調点あり)がささやかながら世界の思想と人類の文化に貢献する方法なのです」と、「なまること」の重要さが強調されていた。

なまりたくない、ネイティブ・スピーカーみたいになりたいとあがいてきた私には、まさにどすを突きこまれたような文章でした。ニ言語使用の緊張感を、私はこれまで履き違えて、無駄に苦しんでいた気がしています。

 ところで、昨日のThe New York Timesに、"March of English reaches Mongolia"という記事がありました。モンゴルは現在、これまで第一外国語だったロシア語を棄てて、第二のシンガポールになるべく、英語を国の第二言語として採用して教育を変えようとしているという内容の記事です。そこには、他の国々も英語と母語バイリンガルになろうとして多大な努力を払っていること、例えば、チリがスペイン語と英語のバイリンガル国家を目指して英語教育を大々的に導入していることが書かれていました。更に、イラクでは、クルド語とアラビア語だけでは、現在の分裂状況を乗り越えるのは難しいことから、中立的言語として、英語を第三の公用語として導入することを検討していることも書かれていて、ますます英語は世界語としての道を驀進中のようです。
 こうした風潮を受けて、日本では、NHKが新学期から更に英語の講座を増やすということから明らかなように、ますます英語熱が燃え盛ることでしょう。英語ができなきゃ、世界から落ちこぼれる!という脅迫観念をもって。
 英語は確かに別の世界につながる素晴らしいドアで、日本人が日本語と英語のバイリンガルになったら、それは素晴らしいことだと思いますけれど、「なまり」を忘れて、アメリカ人のコピーになろうと努力してしまい、日本語を母語とする人間が英語世界に加わることでもたらすはずの貢献は、果たしてあるか、そういう自覚があるかということが、ちょっと心配。(と、今までの自分を棚に上げて言う。)

 英語がこのまま世界統一言語としての道を突っ走っていくのか?しかし、数ヶ月前のInternational Herald Tribuneの記事(だったと思うんですが)に、反米感情高まるアラブ圏では、今、第一外国語としてフランス語を選ぶ人が増えているというのがあったので、誇り高きフランス語が巻き返すのでしょうか。いや、英語支配のお膝元であるはずのアメリカが、今やスペイン語とのバイリンガル国家になりつつあるのですから、ダークホースでスペイン語が天下を取る可能性も否定できませんねえ。
 ま、何が世界語になろうが、日本人が苦労してその言語を身に着けねばならないことに変わりはないわけですが(-"-)。せめて、日本語の外に出る喜びを見つけなければ、やっていられませんわ。

 はるる