ちょっと息抜き

 体力がない私は、ちょっとした旅行でも疲れが出てしまう情けない奴なので、ここ数日、お疲れマダムと化しておりました。で、肩のこらないもの読みたいなーと、人から借りた中村吉右衛門丈の『播磨屋画がたり』をぱらぱらと読んだり(実は私は歌舞伎ファンで、吉右衛門さんは御ひいきの役者さんの一人であります)、敬愛する松下竜一氏(つい氏までつけてしまう)のビンボーシリーズ(と勝手に私が呼んでるだけ)第三弾の『ビンボーひまあり』を読み返したりしていました。(松下竜一のこのシリーズを読まずして、清貧を語るなかれ!)

播磨屋画がたり

播磨屋画がたり

ビンボーひまあり

ビンボーひまあり

 残念ながら、松下センセ(エッセイの中で、ご自分のことを「センセ」と書かれておられるので)は、昨年死去されてしまいましたが、私はこの方の仕事も生き方も素晴らしいと思っています。

 というようなことをしつつ、先日書いた"I'm the King of the Castle"について、まだしつこく考えていました。(そんなひまがあったら、仕事すれば?という声が聞こえてきたような気がするが、とりあえず無視。)あの小説に描かれていた世界って何だったんだろう?という自分の疑問に対して、何か腑に落ちる説明が自分自身に出来れば、それですっきりするんだけどな〜と思いつつ。
 それで、たどり着いた結論というのが、これです。
 この小説は、エドモンドの祖父が死にかけているところから始まり、チャールズの入水自殺で終わり、その間に、エドモンドが自分こそがこの屋敷の後継者であるという思いを確立する重要な要素として、祖父が集め続けていた蛾の標本の世界的な一大コレクションを飾っている部屋というのが出てくる。また、エドモンドがチャールズを怯えさせるために、鴉の標本を夜中にチャールズの部屋に置いたりする。つまり、ここに描かれているのは、徹頭徹尾、死の世界(標本は死骸ですから)、死が支配している世界で、エドモンドはこの死の世界の正統なる後継者なんだということでした。だから、父親はイチイの木(イギリスでは墓場によく植えられている木なんだそうな)に囲まれた、陰気で醜い屋敷にも、蛾のコレクションにも違和感を感じているのに対し、エドモンドは、自分の世界としてそれらを完全に受け入れ、自分と一体化させ、自分こそまさに継承者なのだと強く意識している。
 要するに、なぜ、あんなに小説世界が静まり返った感じがするかといえば、それは結局、死が支配している世界だから。エドモンドが死にシンクロしているのに対して、それが出来ないチャールズは逆に、この死の世界では生きられなくて、死ぬしかない(小説の中では、もう少し話は複雑で、母親がエドモンドの父親と再婚してしまうこととか、エドモンドと同じ寄宿学校に行かねばならない絶望感とかもいろいろ絡まって死ぬみたいですが)。そういうことかなー、と。

 ともあれ、私はチャールズに感情移入しつつ読んでいたので、この本は当分読めませんわ。

 こういう結論が出て、自分としては安心したので、明日からまた気を引き締めなおしてやるべきことをやろうと思ったのでありました。めでたしめでたし。

 はるる