脳と魂

 最近の、私の寝る前読書は、養老孟司玄侑宗久氏による対談をまとめた『脳と魂』です。

脳と魂

脳と魂

 まだ、読み始めたばかりなので、感想も何もまだないという感じですが、面白いなと思ったところをちょっと引用します。

養老:椅子とテーブルの生活になったでしょ。ところが、椅子とテーブルの生活でどういうふうに立ち振る舞いをしたらいいか、私は一度も教わった覚えがないですよ。これはひどいと思うのね。(中略)そういう立ち居振る舞いに関わるところを、戦後平気で変えちゃったでしょ。ところが、それを変えるっていうことは、人間の生き方をもろに変えてしまうということなんだ。建築家でも大工でも、建築やってる人が気がつかなかったのだろうか。

養老:近代化する段階で、日本は強烈に身体を排除してきたわけですが、結局排除しきれるはずがないんですよね。だから当然のリバウンドが起こってくる。(中略)われわれの日常の普通の生活を、意識せずに大きく変えてきた。さっきも言った家の造りに典型的に現れてますよね。考えた上でそうなったかというと、おそらく考えてはいないんですよ。(後略)

玄侑:修行はまさにそうですよ。やる前とやった後では、その人自身が変わるだけですよね。
(中略)
玄侑:非合理じゃないと修行にならないんですよね。そこを社会から排除していくっていうか、
全部コントロール出来るようにしようとしているわけですから、修行する機会がなくなっちゃいますよね。

 この、近代以後の日本(特に、現代日本)は身体と修行を排除してきたという指摘は、私にとり興味深かったです。
 意味を問わずに黙々とすべき修行に、理屈や言葉を求めて、「何の意味があるわけ?」と問うてしまう現代という点に、まずビビッときてしまいました。また、修行をしてもGNPに貢献するわけでもなく、何かを生産するわけでもなく、ただ修行したその人が変わるだけだという発言に、深く頷いてしまった私です。
 
 それと、家具や家の構造の変化(畳からフローリングとか)により、(あるいは、ここでは言及されていないけれども、戦後、着物から洋服に決定的に服装が変化したことにより、)日本人の立ち居振る舞い、所作が根本的に変わってしまったという指摘も、すっと腑に落ちました。
 恐ろしいのは、古いものを失ったのに、新しいものを身に着けていないことだと、私は自らを省みて、つくづくそう思っています。日本人が長い年月かけて作り上げてきた所作、立ち居振る舞いは消えていきつつあるのに、西洋が培ってきた西洋の立ち居振る舞いを習うわけでもない。別に西洋人のようなしぐさをする必要は毛頭ないけれど、椅子・テーブルにおける所作、そうした生活様式の中で美しく見える体の使い方というのがあるはずなのに、私たちは(少なくとも私は)それを知らないのではないか。そういう怖さを私はぼんやりと感じています。
 たまに、日本人の立ち居振る舞いや姿勢が醜いと感じてしまう時がありますが、それは、しつけがなってないからといった理由以外にも、昔は日本人が持っていたはずの「型」を失い、何の型もない存在になってしまっているからなのかも。
 後、体の筋肉の問題かなあ。おなかを突き出した格好でだらしなく立っているというのは、腹筋・背筋その他が弱くて、背筋を伸ばして立てないからじゃないか、と。

 しつけっていう漢字は、「躾」、身体が美しいと書くんですよねえ。…結局、躾の問題か?ただただ私は、わが身を省みて、嘆息するのでありました。

 はるる