黙々読書中

 引き続き、19世紀日本の宗教状況について読書中です。私は無知蒙昧の輩なので、読むものすべてから教えられていますが、個人的に特にためになったのは、前回のコメント欄に書いた島薗氏の論文と、この問題に関する基本必読文献の一つであろう安丸良夫氏の『神々の明治維新』です。
 島薗氏の論文はこちらに。

岩波講座 近代日本の文化史〈2〉 コスモロジーの「近世」 19世紀世界2

岩波講座 近代日本の文化史〈2〉 コスモロジーの「近世」 19世紀世界2

 
 『神々の明治維新 神仏分離廃仏毀釈』は、画像がありませんでした…。
 
 19世紀関連以外で、読んだ本は下の二冊です。
アジアの歩きかた (ちくま文庫)

アジアの歩きかた (ちくま文庫)

      

 『アジア…』は鶴見さんがあちこちで書かれた文章、講演、小学校での授業の記録などを集めた本ですが、この中でまず目から鱗だったのは、次の指摘でした。

 社会の運営にどこまで民衆の意思が通るかという自治の度合いを進歩の基準にすれば、両国(フィリピン、インドネシア:引用者注)ともかなり進んだ社会だった。植民地主義が到来したとき、ここでは、村民会議で世話人(村長)を選ぶ自治が成立していた。だから民主主義という点ではインドネシアもフィリピンも進んだ社会だったのである。(中略)
 つまり島嶼東南アジアでは、民衆に力があったから、外の権力と対抗する上では、強権独裁によって統一を維持しなければならなかった。日本ではこの関係がまったく逆だった。天皇制を頂点とするまとまり意識が早くから成立するために、フィリピン、インドネシアのような分裂の契機は生じない。こうしたまとまり意識が、日本を植民地ではなく、植民地支配国に仕立てたことは確かだ。(「アジアの歩きかた」35〜36pp)

 この箇所と、この部分に次いで書かれた、日本では天皇を頂点とするまとまりの範囲内で、民主主義が許されているという鶴見さんの言葉は、どすっと匕首を突きこまれた感じでした。うーむ、これでは、大日本帝国憲法の限定つき「信教の自由」と構造は同じではないですか。

 『ぷちナショナリズム』のほうは、内容に対して全面的賛成とはいかないのですが、それでもいろいろ教えられました。
 わけても衝撃だったのは、日本社会において、特に若者の中でエディプス・コンプレックスが希薄になっていて、それは戦後日本において父親の権威が失墜したからなどという原因からではなく、そもそも何かをコンプレックスとして人格の内部に貯蔵するだけの心の体制が作れなくなったからという、本質的な心の変化によるのではないか、そして、その若者に広がる本質的な心の変化とは、「分裂」(スプリッティング)「解離」(ディソシエイション)という「切り離し」のメカニズムだと書かれていたことでした。
 精神医学では、こうした症状は境界性人格障害の特徴的な症状とされると同時に、現代的な生き方を体現するものとみなされているそうで、若い人の中で、つらいこと、苦しいことなどを体験するした際、それを自分の人格に取り込まないで切り離してしまうメカニズムが多く見られるようになっているとか。
 ううむ、体の使い方が変化したどころではなく、若い世代は心まで根本的に上の世代と変わっているのか?本当かなあ、にわかに信じられない。そんな気持ちです。
 興味のある方は、この本の第三章をお読みください。新書なので、いたって簡単に説明されていて物足りないですが、それでも、十分びっくりしました。
 それと、最近活躍する若い論客たちの中に見られる「現実主義」=歴史からの「切り離し」の現象について書いてある(それ以外のことも書いてあるけど)第四章も、個人的にはためになりました。これが正解だ!と飛びつく気はないけれど、説得力がありました。
 この本に、野田正彰さんの『戦争と罪責』などをあわせながら、日本社会の精神面を考えていくことも大事かなと思っています。

 はるる