葬儀ミサ

 NHK・BSで教皇の葬儀ミサを見ました。
 ラテン語でミサをしていたので、やはりここぞ!という時は、ヴァチカンはラテン語になってしまうのかあと思いました。今の枢機卿団は、ラテン語ミサを体験している人々ですが、あと20年もしたら、ラテン語はよく分からないという司教、枢機卿も増えるのでは?そうなった暁には、ヴァチカンはどうするのだろう、などとちらっと思ってしまいました。私なんて、うわ、ラテン語だ、おっ、たまに分かる単語があるぞという感じで・・・。なんか、この辺にカトリック教会としての年季の差を感じるというのか、ヨーロッパ中心を感じるというのか。うむむ。歴史的には、16世紀以降、ラテン語が非ヨーロッパ人司祭の誕生を阻む壁となった(神学を勉強する=ラテン語で勉強するだった時代、わざと非ヨーロッパ人にはラテン語は教えなかったりしてましたからねえ、ヨーロッパ人宣教師たちは)ことを思うと、少々複雑な気分。
 いずれにせよ、アジア、アフリカの信者が増えている昨今、こういった大きな合同のミサを行う時の言語一つ取っても、考えるべきことはたくさんありそうです。次の教皇になられる方は、大変でしょうねえ。色んな問題が待ち構えているから。

 私はここ数日のヨーロッパの動き(多くの人が泣き悲しみ、メディアが教皇のニュース一色になり、続々と弔問にローマを訪れ、その数500万ともいわれる等)を見ていて、極東の成人洗礼信者には到底ついていけない何かがここにはある、ヨーロッパのカトリックは奥が深い、自分もカトリックだと思っていたけど、何もわかっていないのかもという気分がちょっとしていたのです。何か、身体的な反応が違うといいますか。この辺りが、キリスト教信仰や教会という存在を社会の中にどれだけ受肉させているかの違いかなあ、と。

 ただ、今日の葬儀を見ていて、たとえ言葉はわからなくても構造はよく分かっているミサを見ていて、私もこの信仰共同体の一員なんだなということを感じ、ちょっと嬉しかったです。

 今は、教皇ヨハネ・パウロ二世が、このように多くの人に祈られ愛されて、主のみもとに行かれたということに、神様に感謝したい気持です。
 教皇の評価については、これからじっくり考えねばならないことでしょうけれども。

 はるる