言葉・ことば・コトバ

 『朝日新聞』3月8日付け朝刊に、「独語離れ食い止めろ」という記事が載っていました。日本では90年代以降、ドイツ語を学ぶ人が激減して、中国語や韓国語にも抜かれているため、日本におけるドイツ年である今年、必死の巻き返しを図っているという内容の記事です。
 そういえば、鷲見洋一さんの『翻訳仏文法』の上巻を読んでいたら、のっけにフランス語学習者の急激な減少ということが書いてあったっけ。英語の圧倒的な人気の前に、他の言語は苦戦を強いられているらしい。

翻訳仏文法〈上〉 (ちくま学芸文庫)

翻訳仏文法〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 そりゃそうでしょうねえ。東アジアにいたら英語以外の外国語ってあまり必要性、感じないですもん。もちろん、日系ブラジル人労働者の急増によるポルトガル語の必要性が高まるとか、中国人学生、労働者が増えて中国語がいるといった事情もありますが、大体、日本に普通に住んでいる限りは、英語やっていれば御の字でしょう。
 なので、この記事を目にした時の私の第一反応は、日本にいてドイツ語をやる意味・意義を持たせて、やる気を継続させるのは難しいと思うけどねえ、というものでした。遠いドイツ語より近くの中国語となるのは、今の日本の置かれている経済的、政治的、文化的状況からいって当然では?
 と思っていたら、その三日後、今度は『朝日新聞』の夕刊(3月11日付け)に、中国政府が世界各国に中国語を普及させるために「孔子学院」なる中国語学校を設立するという記事が載ったではありませんか。
 要するに、中国の急激な経済発展により、世界的に中国語熱が高まっていて、既に中国語学習者が2500万人を突破しているのを受けて、国家戦略として中国語を普及させるということらしい。
 昔、日本経済がぶいぶい言わせていた頃、一時的に日本語ブームが起こったことがあったなあと過去の栄光(?)を思い出しつつ、世の中の流れは完全に中国に向いているのだということを再確認した次第。
 また、この記事を読んで、昨年11月のThe New York Timesの記事 "For many Asians, China rises as cultural magnet"の中に登場した、流暢な英語を操るタイ人が、世界の中心は今後アメリカから中国になるから、今、私は中国語を勉強していると言ったという出だしの部分を思い出した上に、3月の朝日新聞Be(土曜日)の特集に登場した日本人が、これからのアジアは英語と中国語の時代になると断言していたことも思い出し、国際社会における言語の力関係に今更ながら、愕然とする思いがしました。(愕然としてしまう辺りが、ぼんやりな日本人と言う感じで情けないけど。)
 日本のような単一言語社会に慣れていると、二ヶ国語、三ヶ国語併用がとてつもなく大変なことに感じてしまうのですが、アフリカ諸国のように多言語状況が当然の社会に、あるいは、ルクセンブルクやスイスやベルギーのように複数言語が公用語となっている社会に生まれると、言語に対する感覚はどのようなものなのでしょう?私にとり、謎は多いのであります。

 というのが、3月に書いてアップしたものの、なんだか気に入らずすぐに削除していた内容です。それをまた今頃再び登場させようとしているのだから、私って一体…。

 えー、気を取り直しまして、この言語関連で、先日読んだ『無敵の一般教養(パンキョー)』の中の言語学の講義に関して、ちょっと。

無敵の一般教養

無敵の一般教養

 この本は島田雅彦さんがそれぞれの学問分野で第一人者の学者さんから講義を受けるという形式になっており、言語学田中克彦さんが講義されています。(おそらく言語学を勉強している人の中には、えっ田中克彦?と顔をしかめる人もいるのではないか、とこの本を読んで推察しております。)
 講義の題名は「闘争する日本語」。なんか、すごそうではないか。英語や中国語に席捲されるこの世界で、日本語はいかに闘争できるのか!?と、思ったら、そういう話ではありませんでした。あら。
 のっけに、音なし文字文化=漢字文化=中国は、この文字ゆえにいつまでたっても識字率の問題は解決できないであろう、なぜなら、最低6千字、覚えなければ文章を書くことができないから、それに対し、文字を音とした、つまり表意文字を抽象化して音を表す記号としたアルファベットがいかにすごい発明だったかという話が始まって、思わずほほうと身を乗り出してしまいました。なにせここのところ、漢文および中国語とにらめっこしていて、頭痛してますんで、私。(あの漢字が延々と並んでいるのを何時間も読んでいると、昔、故宮を歩いていて、道も建物も石ばかりで木が一本もないことに、息が詰まってきた感覚を思い起こしてしまうのです。)
 表意文字は伝達、コミュニケーションの道具としては向いていない、ニュアンスには富んでいても抽象化に適さないなんて、考えたこともなかったです、私。
 そして、この漢字を取り入れているという点で、日本語は闘争の場となっているというのです。日本語は漢字を取り去れば、実に単純な言語でしかない、最後まで漢字にしがみついていたら漢字と一緒に日本語は心中してしまう、それを21世紀に試されるであろう、この日本語の中には二つの対立する原理、
(1)有限個の音によって言葉を固定していこうとする方向
(2)ことばは音ではなく、究極的には意味であって、意味を単位にした文字=漢字を維持しよう   とする方向
があり、この二つが闘争しているのだというのが、田中氏の主張です。日本語の中で表音文字表意文字の闘いが行われている、それを日本語の文章を書く人は自覚せよ。これが、締めくくりのメッセージでした。(個人的には、もっと突っ込んで話を進めて欲しかったです。せっかく面白くなりかけたところで、終わってしまっている。対談だからかなあ。対談はこういう欠点がある感じがしますね。って、不満足なら、田中克彦さんの本を読めばいいだけなんだろうけど。)

 今や、英語までドンドン取り入れて、日本語はだんだん訳分からなくなりつつある気がしますが、英語を入れていくというのは、日本語にとってどういう意味を持つのでしょうか?? 
 私は、カタカナが増えるというのは、言語能力を磨く上であまり助けにならない気がするのですが。そういえば、歴史的に、カタカナで書くということには特別な意味合いがあるのだという論文があったなあ。中世になぜ、農民側の訴えはカタカナで書かれたかというような研究だったよーな気がする。(えー加減に眺めていただけなので、肝心の部分を覚えていない(-_-;)

二重言語国家・日本』というような題名の本もあったけど、これも確か、この漢字と日本語の問題を扱っていたはず。いつかちゃんと読んでみよう。(ああ、ますます課題図書が増えていく)

二重言語国家・日本 (NHKブックス)

二重言語国家・日本 (NHKブックス)

はるる