高橋たか子の『日記』

 先日読み終えて、いろいろ考えさせられている、高橋たか子さんの『高橋たか子の「日記」』から、いくつか引用します。私がうだうだ言うよりも、高橋さんの文章を読んでいただいたほうがいいと思うので。

高橋たか子の日記

高橋たか子の日記

 日本に何が欠けているか?
 (中略)
 一、一人の人の存在の存在的エネルギーの量とか強さが西洋人にくらべて少ないのではないか。その量とか強さを、一つにまとめて、人は他人と向き合うべきなのに、この一つにまとめる術が日本では文化的に欠けている。一つにまとめることで、その人というものが在り、また、そのことが他人への礼節にもつながる。こうした自分を相手にさし向ける、かつ、相手をよく見つめている、ということが、日本人に欠けている。

 コンピュータ時代に急速になっていく。人と人とがじかに対話することのできる生存仕方を―つまり、人間である意味を、大切にすることが失われていく。特に、インターネットの恐ろしさ。これに気づかぬ多くの人たちがいることの恐ろしさ。(中略)
 集合意識および集合無意識への暴力のようなものが起こる。
 煽動とか。人格崩壊とか。
 わるい影響の、広い地域(地球)規模。
 人間の変貌がゆるゆる進行している。
 責任能力や理性能力、いや、思考そのものが薄らぐ。
 遊びと真実との見分けをなくしていく。

 もともと日本には、ペルソナ、という考え方がない。ペルソナ、という実体がないからか、考え方がないのでそういう実体が生成されないのか、どちら?
 取り替えのきかぬ、この自分の全体、それがペルソナだ。しかし、こう書けば、日本人がすべて、自分こそそれを生きている、と答えるだろう。でも大方の日本人は我欲を生きているのではないか。
 我欲ではなく、「私」というものを主軸として生成されてきた、この自分。他の人は、他の人なりに生成されてきた、その人の自分というものをもっている。このような個々人が西洋諸国にはある、と言えるだろう。
 でも、生成されてきた自分、だから取り替えのきかぬ自分、というものは、自分だけが知っている、そのような実質のものとしての自分に、自分が責任をとる、という姿勢によってのみ成り立つのかもしれない。

 コンピュータのボタンで自動的に思いを書きつづけることは、精神分析において医者に向けて何でもすべて思いつくままに口にだすのと同じ。すべて思いつくままだから、そのことに当人は陶酔的となってしまうし、ホーム・ページとかEメールの相手にたいして害となることが含まれていても気づかずに、ボタンを押しつづけていく。相手の顔の反応で反省するということは生じないわけだ。相手もまた同じことをして、この双方の、精神分析の時のような、言葉の垂れ流しにおいて、双方が酔って意識の通常性を失う。

 上に引用したことのいくつかは、確かに私もインターネットの世界を覗いて、こんな風にブログをやってみて、感じていることです。今後、どうするか。ますます考えなくては。

 はるる