女性司祭

 eireneさんのブログ、Meditationes(http://d.hatena.ne.jp/eirene/)の中に、『性の意味』という本にある土居氏の論考の内容紹介がされており、大変興味深く感じました。面白く感じたところを以下に引用させていただきます。(10月17日付)

 古代キリスト教会において、「父」という名辞は神が男性であることを言うのではなく、神が万物の創造者であり、人格性を伴う存在者であることの表示なのだという。

 神を「父」と語るにせよ、あるいは(父に比べると、そのように語られる例は少ないが)「母」と語るにせよ、神そのものは性別を超越した方として、古代キリスト教会の人々には了解されていた。神に使われる男性的(女性的)名辞は、あくまで神を相対的な仕方で表示しているに過ぎない。男女の性は、あくまで被造物の世界に属する。それゆえに相対的なものだ。

 こういう考え方は、ジュリアンの神学にも地下水脈でつながっている、だから彼女は父なる神にして母なる神(キリスト)と書き得たのだと思います。以前、ある人にジュリアンは母なるキリストと言っているということを話したら、気持ち悪いと言われて、驚いたことがありますが、神は性別を超越した方であるということをしっかり踏まえていないと、おかしなことになるのでは?
 男女の性の問題には、上のような視点が大事だと思っています。神を男性として捉えたことで、どれほどの問題が起こったことか。
 
 というところで、先月読んだ『女性はなぜ司祭になれないのか』に話を持っていってしまいます。別に、女性を司祭にせよ!とここで叫ぶつもりはないですけどね。(問題をきちんと理解しているわけでもなく、確たる考えもない奴なので。)

 

女性はなぜ司祭になれないのか (世界人権問題叢書)

女性はなぜ司祭になれないのか (世界人権問題叢書)

 私は以前から女性司祭反対の理由がどうも腑に落ちず、もう少し詳しいことを知りたいと思い、この本を手に取りました。

 なぜ、女性は司祭になれないのか。著者ワインガーズ師の研究によると、その基本的論拠は次の五つです。

①男性と異なり、女性は神の似姿として創られていない。女性は男性に従属する存在。(なんだと〜)
②女性は教会内で教えてはならない。
③女性はまだエバの罪を負っている。
④キリストは12使徒の中に女性を一人も入れていない。
⑤女性は完全な人間ではないので、キリストを代表することができない。(なに〜っ)

 うーん、ここまで言われていたとは、知りませんでした。ちょっと、あんまりじゃないですか。女性が何をしたというのだ。こんな論拠で反対されていたというのも、悲しいなあ。

 昨今の教理省の立場は、④および⑤らしいですが、私の個人的な印象では④を前面に出していると思っていました。この本によると、最近になって教理省は⑤も復活させているとのこと。失礼ですねえ、全く。
 また、最近教理省が好んで使う女性叙階反対の理由はイエス・キリストが男だったから、感謝の祭儀で男によってのみ代表されることができる」だそうです。
 え−と、ちょっと乱暴すぎる論理に聞こえるんですけど。いや、乱暴すぎるから、かえって反論が難しいとか?

 私は、一部の女性がしている過激な叙階要求運動(例えば、ドナウ河とかセーヌ河とかセント・ローレンス河の上に船を浮かべて、そこで女性司教が女性を司祭叙階してしまうなど)は、逆効果のように思えて賛成しかねています。
 しかし、かといってこの問題を膠着状態にしておくと、司祭召命を持っている女性たち(この世にはいると思うんですよね)が叙階されないことになり、それは神さまの意志に反したこと、その人が創造された目的に到達できないことになるので、少なくともまずは女性助祭までは認めて欲しいと思っています。
 助祭までなら、歴史的にも根拠がありますし、ヴァチカン側も譲歩しやすいのではないかと。司祭叙階要求はその後かなあ、と。甘いですかねえ。

 女性司祭に関連して、こういうサイトがあります。http://www.womenpriests.org
 なかなか、興味深いですよ。ごく一部、日本語でも読めます。

 なお、聞いた話によると、著者のワインガーズ師は、女性司祭に関する一連の著作その他により、確か、司祭職停止処分を得、更に、某修道会の副総長までしたのに、その会を出る羽目になったそうです。なんだか、申し訳ないような感じ。

 はるる