対話の回路

 今、小熊英二さんの対談集『対話の回路』を読んでいます。

対話の回路―小熊英二対談集

対話の回路―小熊英二対談集

 近年まれに見る読み応えのある対談集という感じです。対談は下手するとなあなあで終わるというのか、対談者同士の予定調和的なまとまり方になったり、ごく表面的な話で終わってそこをもっと突っ込んでくれと言いたくなったり、なかなか読んで満足というものは少ないと私は常々感じていたのですが、この本は違います!
 小熊さんが編集者時代に、多くの対談が通り一遍のおしゃべりに終わるのがいやだと感じており、それゆえ自ら対談に臨むにあたっては相手の著作を出来る限り読み込んで準備したというだけはあります。頭さがるなあ。

 村上龍氏との対談から。

小熊:(前略)第一に、シカトがいちばん高度ないじめだというのは、すごくよくわかりますね。一神教の伝統がなく、おまけに宗教があまり大きな意味をもっていない現代の日本では、アイデンティティの確認が、他者から認めてもらうという形態で行われている。「誰も認めてくれなくても、神様が私を見ていてくださる」という回路が成立していないわけですから、「他人様」や「世間様」が「神様」にちかくなる。そうなると、「他人に認めてもらえない」ことは「神に見捨てられる」というにも等しい。(45p)

 これは、実体験として私は大変よく分かります。かつて私はいじめられっ子だったこともあってか、自分の存在は他者のまなざしに依拠しており、そのまなざしに私の生死がかかっていると感じて、苦しくて仕方なかった。だから、他人が私をどう考えるかということにしか私の存在の基盤がないことがつらくて、キリストに出会った側面があります。

 
 谷川健一氏との対談から。

谷川:ところが最後の一点で、どうしても日本の伝統とカトリックが合わない部分が出てきたんです。当時私も時代の人といいましょうか、やはり日本が戦争に勝ってほしかった。ところが神父たちにとっては、日本が戦争に勝とうが負けようがまったく関係ない。戦争に負けてもカトリックの神に仕えていさえすればいいわけで、彼らには日本人としての愛国心がないのかと疑ったのです。
 それと同時に、カトリックは日本の風土に対する理解が非常に希薄であることがわかってきました。もともと私がカトリックにひかれたのは、プロテスタントは言葉だけを重んじ、風土的な思想や感情を切り捨てているように思えたからです。しかしカトリックにおいても日本の歴史や、人びとのなかに根付いている民族の体験が抜け落ちているような気がしてきた。
 それは私がはじめに悩んだことではなくて、すでに日本にキリスト教が入ってきたときから問題にされていました。キリスト教を受容していこうとすると、それまでの教えや風習や信仰をすべて捨てなければならない。(後略)204〜205pp)

小熊:しかし御著書にはもう一つの理由を書いておられる。つまり、日本のカトリック教会が、戦争に抗議せずにむしろ協力し、それに非常にがっかりしたと。
谷川:そうです。(中略)私は思いました。人類の普遍をうたうカトリックならば、戦争に抗議して殉教する姿勢があってもいいのに、なぜこんな表紙(引用者注:大天使ミカエルが破邪剣正の声をふるって悪い敵をたたいている絵)にするのか。結局は戦勝国カトリック―日本は当時まだ中国との戦争に勝っていましたから―なんだなと。
 ところが一方で、戦争に負けている朝鮮や中国では、カトリック教会が傷ついた人々の安息の場になっていました。逃げてくる者をかくまったり、逆に捕まったものを逃がしたりと、教会が命がけで民衆を守ろうとしたんですね。結局、日本の教会や聖職者は国策に協力しているだけである。その一方では、日本が戦争に負けても勝ってもどうでもいいというようなことを言う。それにはがっかりしました。(209〜210pp)

 カトリック教会への外の目の一例として。宣教の問題、戦争協力や国家観の問題は、歴史的にはいろいろ説明できますが、教会に出逢う人にはそんな説明など意味がない。どう生きているか見るだけ、教会は見られて、判断を下されるだけです。そこには一期一会的要素があるともいえる。
 日本人キリスト者としていろいろ矛盾を抱えてもがいている私としては、こういう文章は重いです。
 谷川健一さんは、宮本常一氏とも交友関係がおありで、そういう点でも興味を覚える方です。実は、宮本ファンの私なのであった。(^_^;)
 宮本さんの『忘れられた日本人』を読むと、阿部謹也氏の「世間」理解、定義はちょっと偏っているのではないかと思わざるを得ず、また自分自身の「世間」という使い方から見ても、阿部さんの論を全面的に肯定できないと思っています。
 話がずれてきたので、本日はこれにて。

 はるる