ヴェイユ読書中

 昨週は風邪で寝てばかりという状態が続いたので、月曜日から気を引き締めなおしている私でございます。
 
 だから、というわけではないのですが、少しずつ味読しているのは、『ヴェイユの言葉』です。いつもながら、彼女の言葉を読むと、真冬に井戸の水を浴びるような、きりりと精神が引き締められる感じがします。

ヴェイユの言葉 (大人の本棚)

ヴェイユの言葉 (大人の本棚)

 これを読む度に『カイエ』全4巻を読みたくなるのですが、なにせ、買おうと思ってもかなりのお値段するので、手が出ません。一冊8,000円くらいしますからねえ。何度、本屋で手にとっては、ため息ついて書棚に戻したことか。
 古本屋で探しても『カイエ』は見かけないし、まれにあっても値段が安くなっているわけでもないので、どうしたものかと考えております。こういう本は図書館で借りて一気に読む類のものではないですし…。うーむ。
 

カイエ〈1〉

カイエ〈1〉

 買えないでいる、憧れの『カイエ』。その第一巻。嗚呼。

 とりあえず今のところ、ヴェイユの神に関する言葉に震撼しつつ、読んでいます。

 神は神を愛する人びとのあいだに協定による言語をもうける。生の事象のひとつひとつがこの言語の一単語である。これらの語はすべて同義であるが、美しい言語におけると同じく、それぞれにまったく独自のニュアンスがあり、他の語に翻訳することはできない。これらの語すべてに共通する語義は「われ、なんじを愛す」である。
 一杯の水を飲む。水は神の「われ愛す」である。飲み水をみつけられず砂漠を二日さまよう。喉の渇きは神の「われ愛す」である。(……)
 この言語の初学者はこれらの語の一部だけが「われ愛す」を意味すると思いこんでいる。
 この言語に習熟した者はただひとつの語義しかないことを知っている。
 神は被造物にむかって「われ、なんじを憎む」というための語をもたない。
 ところが被造物のほうは、神に「われ、なんじを憎む」というための語をもっている。
 ある意味では被造物は神よりも力がある。被造物は神を憎むことができるが、神のほうでは被造物を憎むことができない。
 この無力さが神を非人格的な「人格」にする。神は愛する。ただしわたしが愛するようにではなく、エメラルドが緑色であるように愛する。神は「われ愛す」なのだ。

 人間のうちにやどる神の似姿(イマージュ)とは、人間が人格(ペルソナ)であるという事実に付随するなにかではあるが、人格そのものではない。それは人格を放棄しうる能力である。それは従順である。

 「従順」について、私にとって、とても腑に落ちた文章でした。

 いまこの瞬間も、神は創造の意志によってわたしを存在のなかに維持しつづける。わたしが存在を放棄できるように。
 わたしがついに神を愛することに同意するのを、神は忍耐づよく待っている。
 直立不動で、黙したまま、一片のパンを恵んでくれそうな人のまえにたたずむ物乞いのように。時間とはこの待機である。
 時間とは、わたしたちの愛を乞い求める神の待機である。
 星辰、山麓、海原など、時間を想起させるすべてが神の嘆願を伝えている。
 待機するときの謙虚さはわたしたちを神に似たものとする。
 神は善でしかない。ゆえに神はそこにたたずみ、黙って、待っている。進みでたり語りかけたりする者は、わずかであっても力を行使する。善でしかない善はただ在りつづける。

 ヴェイユは「世人に伝えるべき純金の委託物が自分の中にある」が、同時代の中では「この委託物を預かってくれる相手はいないだろう」と両親に宛てた書簡の中で書きました。彼女は続けて、これは「密度の高いひとつの塊」で「細切れで分配することはできません。この塊をうけとるには努力が必要です。しかも努力というのは疲れるものなのです。」と綴りました。
 私は、この塊を受け取る人になりたいという願いは抱いているのですが、努力しない怠惰な人間ですし、私に塊を受け取る資格が与えられていようはずもないので、ただの願いで終わってしまいそう…。ぬぬぬ、せめて、努力しよう。彼女はこうも言っているんですから。

 どのような人間でも、たとえその生来の能力がほとんど無に等しくても、真理を願い求め、真理に到達するために注意の努力をおこたらないならば、天才にのみ約束されているあの王国に入ることができる

 はるる