ルワンダ/ウィトゲンシュタイン

 昨日は一日遅れで誕生日祝いとばかりに、江戸川橋にあるつぶつぶカフェで友人とランチ。ソーセージも春巻きもハンバーグも何もかも、肉ではなく雑穀で作ってありましたが、なかなかおいしかったし、体の中にどんどん入ってくるような力強さのある食べ物たちでした。ちょっとお高かったのが難ですが、雑穀自体が高いからねえ。

 『ホテル・ルワンダ』の衝撃はまだ続いています。それを内に抱え込みつつ、ヴェイユを読んでいるところです。

 肝心なのは殺人にたいする姿勢です。(中略)世俗にせよ教会にせよ、なんらかの権威ある当局によって、生命になにがしかの価値があるとされる人間の埒外に、なんらかの範疇に属する人びとが定められるやいなや、こうした人びとを殺すこと以上に自然な行為はなくなります。懲罰も非難もこうむらずに殺せると知るなら、人は殺すものです。あるいはすくなくとも、殺人者たちを励ますような微笑を送るのです。たまたま最初はいささかの嫌悪を感じたとしても、これをあえて口にはせず、いくじなしと思われたくなくて、すみやかに押し殺してしまいます。衝動あるいは酩酊のようなもので、よほど強靭な精神力がなければ、この誘惑に抵抗することはできません。思うに、こうした精神力は例外的なものです。わたしは寡聞にしてそのようなものを眼にしたことがないからです。
(スペイン内乱の従軍体験について語った、ヴェイユより作家ベルナノス宛書簡)

 力の本質はその威信にある。物理的に生命を奪う能力または権限は、その力の行使者に一種の神々しさを与える。現実に殺すまでもなく、その気にさえなればいつでも殺せるという事実は、力をふるう者に想像以上の権力を与え、力をこうむる者に実質上の拘束をくわえて〈もの〉とする。だが、みずからが行使する力の威信に幻惑されて思考力を失った強者もまた別様に〈もの〉となる。
冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話』163頁

シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話

シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話

 もし私がルワンダ人で、1994年にあの場にいたら。
 もしも私がフツだったら、私はどうしたろうか。
 みんなやっていることをやらないわけにはいかないと言い訳しながら、大勢に埋没することにほっとしつつ、殺人に手を染めたか。これが、今、自分に求められていることだからと安心感すら覚えつつ、ツチを殺してしまっただろうか。
 もしくは、支配の力に酔わされて、興奮で我を忘れて、積極的に加担する側になったか。
 あるいは、殺しはしなくても、殺人者を励ますような微笑を送っただろうか。
 私は殺戮に反対だという態度表明をできただろうか。『ホテル・ルワンダ』の主人公ポールのように、ツチを匿い、必死で守ろうとしただろうか。彼は、ただ人間として当然のことをしただけ。でも、それがなんと難しいことか。

 そんなことを考えます。自分の中の人を殺したくない、こんなのおかしいという真実の気持ちを、ポールのように、シモーヌ・ヴェイユのように、自分の内にしっかりと最後まで保ち続け、それを生きる恵みを願い求めています。

 ここで、まったく話題が変わってしまうんですが、昨日『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』購入しまして、それをちょっぴり覗いています。(私が、昨日までこの哲学者の名をヴィドゲンシュタインと発音していたというレベルの人間であることを、ここに懺悔しておきます。濁らないんだと知ったときの私の驚き、ご想像あれ。だってWittgensteinと書くからなんとなく、濁音だらけのような気がしてたんですもん。確かにttでドってことはないですが。(ーー;)

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

 こんなヤツなので、当然、彼の著作はすぐ挫折。ウィトゲンシュタイン哲学の入門書みたいなのは齧ったことはありますが、しょせん、自分は哲学に向かないことを再確認しただけだったなあ。(この人の顔、眼が怖いと思うのは私だけ?←こういうしょーもない感想しかないわけだ。)

 でも、これはとっつき易いです。書き方が、なんとなくヴェイユの『カイエ』に通じるものがあるようで。

 真の謙虚さとは一つの宗教的問題である。(1930年10月18日)

 神と結ばれている存在は強靭である。(1930年11月26日)

 臆病さからではなく、正義感から、あるいは他人への配慮から正しくありたいと思う者は幸福である。―私が正しくする場合、私の正しさはたいてい臆病さに由来する。(1931年5月6日)

 自分のためにではなく、その者のために人を抱きしめよ。(1931年11月2日)

 ちょっと、ウィトゲンシュタイン、好きになったかも。

 はるる