私は”これを読みきった”自慢(?)

 今日はロヨラの聖イグナチオのお祝い日です。
 もう、7月も終わりかあ…、しみじみ。
 今日の名古屋は昨日までとは打って変わって涼しいです。快適!

 昨日、髪を切りに行くついでに何ヶ月ぶりかでデパートを覗き、そこに売られている今年流行しているのであろうデザインの洋服を見て歩いているうちに、四十路になった女は一体何を着たらいいんだべ?という心境に陥り、瞬間的に本屋で40代をターゲットにした女性ファッション雑誌を買おうかと思いました。(人はこうして衝動買いするのね。買わなかったけど。)
 昨日、もう自分は若くないということを、ぴったり目のスカートが如実に示す己の体型を見てしまって痛いほど感じ入り、う〜むと唸っているところです。
 なんでも着られるご身分というわけではないし〜。
 いっそ着物でも着ることができたほうが気楽なのかもしれないですが、そういうわけにもいかず。
 中年おばさんの悩みをいよいよ自分のものとする年頃と相成りました。

 ところで、ここで話はいきなりまるっきり違う方向にいきます。
 吉野朔美さんが『本の雑誌』に連載しているエッセイマンガ「吉野朔美劇場」を収録した本(現在まで4冊刊行)のうち、第二弾にあたる『お母さんは「赤毛のアン」が大好き』の中に、「私は”これを読みきった”自慢」という話があります。

お母さんは「赤毛のアン」が大好き (角川文庫)

お母さんは「赤毛のアン」が大好き (角川文庫)

 吉野さんが身近な人びとに「私はこれを読みきった!」と自慢できる本の題名とその理由を聞いて回った内容をマンガに描いたもので、男性編と女性編があります。
 で、よーするに、わたしはこれを読んで以来、ずっーと「私のこれを読みきった自慢ができる本ってなんだろ?」と考えてきたわけですね。
 マンガに登場する入江敦彦氏や岡松真理さんのように、うーん、うーんと悩むこと数年(時折思い出しては考えていたに過ぎないから)。
 やっとこれかも…と思う本に行き当たりました。
 それはこれだ!
 
他者のような自己自身 (叢書・ウニベルシタス)

他者のような自己自身 (叢書・ウニベルシタス)

 リクールの『他者のような自己自身』。
 昔、大学でこの本で読書会をやった。(我ながら、参加するなんて何を考えていたんだか、と思う。)
 私以外の方々は哲学に向いた頭の皆様で、いろいろとご議論なさっておられましたが、私にとってはもう…本を読むという行為がこれほど苦しいとは!というほどの地獄の読書体験でした。
 日本語の文章のはずなのに、それなりに長いはずの私の読書人生において見たことも聞いたこともない日本語の単語がばんばん出てくる。
 ワタシ、ニホンゴ、ワカリマセーン。
 文章も難解。
 わたしはあたまがわるいので、ぜんぜんりかいできませんでした(まる)

 そんな心境になりつつ、1年あまりかけて、一応読み通しました。
 しかし、あれを「読んだ」というのだろうか。
 この書物に何が書いてあるのか、全く分らないまま、最初から最期まで目を通した体験というのは、今までのところ私の人生において、あれが最初で最期です。つらく苦しい道のりでした(;_:)。
 てなわけで、この本が「私はこれを読みきった」自慢(?)の本だなあということに、思い至ったわけです。

 中学生のとき、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』(「かく語りき」と訳されていた気がする、岩波文庫でもなかったけれど、記憶がおぼろ)を読んで、…なんのこった?さーっぱりなーんもわっかりっませーんと思って以来、哲学=私の分らない世界という図式がしっかりと私の頭に刻み込まれました。(中学生で二ーチェを読もうなんて、己を知らな過ぎた私。ソクラテスに叱られそうだ。)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

 それ以来、私は何度も哲学書にトライしては挫折しています。なんか本を開くのも怖いかんじ。訳分らないことが一杯書いてあるような気がするんですもん。
 
 現代思想を研究している人と話していると、ま、まぶしいっ!とその人に後光がさしているように感じてしまいますわ^^;。

 私は宗教書のほうがピンときます。やはり、哲学と宗教は似て非なるものなんでしょうね。

 はるる