引越しと「愛国」
帰ってきました。コメント欄、復活してます。
引越し関係でもうボロボロ。一日過労で寝込みました(;_:)。
昨年東京のAから名古屋のBとCに荷物を送り、東京と名古屋の二都物語をやっていたわけですが、いよいよ本拠地を名古屋に移すこととなりました。
で、どうするかというと、東京のAから荷物を完全に引き払い、先週名古屋のBにどっと送り、その片づけを終え、今週末には東京から名古屋の新たな住まいであるDにどっと荷物を送るのであります。同時に名古屋のCからもDに荷物を移すという、どーしてこんなややこしいことをするのかといぶかしがられそうな経緯を経て、引越しは完遂される予定でございます。
これは、なんというか、無限の引越し運動みたいで、疲れます。
しかも、引越し作業の合間に東京と名古屋を往復し、仙台に行ったり、湘南に行ったり(遊びにではありませぬ)…という生活をしたので、さすがに無理がたたりました。でも、ここでひたすら寝てよかったです。なんとか体力回復。
で、そんなしんどい思いしているなら、何もそんなもの読まなくてもと自分でも思うのですが、引越し作業の息抜きに姜尚中氏の『愛国の作法』(やっと積読脱出)と鈴木邦男さんの『改定増補版 新右翼 民族派の歴史と現在』を読んだので、余計疲れたかも〜。(ただのアホやがな。)
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『新右翼』を読んで、右翼とは情念、感情なのだなという感想を持ちました。根底にあるのは、理屈ではないですね、あれは。エトノスという感性的なものを土台にしてる。
新右翼のスタートが1970年の三島事件で、それも三島と共に自決した森田必勝への「負い目」「後ろめたさ」だったというのが、私にはどうにも理解できません。
何故そこで「負い目」「後ろめたさ」を感じなければならないのかがどうもつかめない。そこはもう感情の世界だからか、鈴木さんも理屈では何も書いてないため、よく分からないなーというのが正直なところ。
「森田の志の継承」とポンと書かれても、その志が何なのか、私にはよく分からないのであります(こうかなと想像はしてみますが、掴んだという手ごたえを感じられない)。
また、森田に対する負い目の連環でその後の右翼の決起(経団連事件とか住友不動産会長宅襲撃事件など)があったというのも、どうもピンと来ません。憂国ということなんですかね。うーん。
というわけで、『新右翼』を読んだら、なおさら謎は深まるばかりでありました。
それと、新右翼の天皇観の章を読んでいて、今や右翼と左翼を分けるのは、天皇問題ではなく、歴史認識だと思いましたね。先の大戦をどう評価するか。これが左右を分けるメルクマールなんですな。天皇はもう問題じゃない。
そして、この分け方で行くと、私は確実に「サヨク」になる^^;。
今まで自分は保守的な人間だとぼんやり思ってましたが。というのは、母方の祖父母の家には明治天皇や乃木大将や昭和天皇や今上天皇皇后のご成婚写真やらが飾ってあり、天皇家に対する崇敬の念は子供の頃に理屈抜きに入ってしまっているところがあるので。
それに昔は、海外に出るときには、背中に日の丸を背負っている気でしたしね。日本の名に泥は塗れないという思いで気負っていたですよ。日本=私という、最近はやりのセカイ系やっていたな、今思えば。子供だったね、フッ。
鈴木さんの個人史を読むと、生長の家の信者の家庭で子供の頃から理屈抜きに「愛国」的教育を受けていたようなので、基盤が情念になるのかなあと思ったりしましたが、もう少し新右翼について読まないと結論が出せません。
ところで、前回のエントリで鈴木さんの憂国と愛国の違いについて引用しましたが、実は一つだけ引っかかっていたことがありました。
それは「決起」ということ。
これが分らない。
なぜ、テロルをするのか。
なぜ、自決するのか。
分らない。
自決して何になるのか、分らない。
憂国はいいけど、テロや自決せずに別の方法をとれないものかと思ってしまう。
それとも、そういうことをするのが「憂国」なのか??
こういう理屈を超えた情念・感性の右翼がちょっとピンと来ないのに比べると、大変よく分かる、肌に合う説明だったのが『愛国の作法』。
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前半の、何故今「愛国」なのかという分析は、最近あちこちで言われていることと通じており(それこそ鈴木さんも同様の指摘をしている)、自分のこれまでの理解の確認をしながら読んだ感じでしたが、後半の特に第四章の「愛国の作法」は姜尚中氏が力をこめたところ(ではないかと想像)なので、個人的に教えられることがありました。
姜さん自身の言葉ではないけれど、引用されていた文章から心に留まった箇所は:
若し過ちて、何事にても我国民の為したることは是なりとするが如きことあらば、是れ真正の愛国心にあらずして、虚偽の愛国心なるを忘るること勿れ。我国民の為したることも、是なることもあれば、非なることもあり。其非なることも、我国民の為したることなりとて、強ひて之を是なりとすることあらば、是れ他国に対して、我国民のし尿と威望を損するものにして、決して愛国の所業にはあらず。……虚偽の愛国心は、却って其国の信用と威望を失ふものなり。
(竹越与三郎『人民読本』1901年刊)
現実国家の孝道態度の混迷する時、国家の理想を思ひ、現実国家の狂する時、理想の国家を思ふ。之は現実よりの逃避ではなく、却つて現実に対しても最も力強き批判的接近を為すために必要なる飛躍である。現実批判の為めには現実の中に居なければならないが、現実に執着する者は現実を批判するを得ない。即ち現実によりて現実を批判することはできないでのである。現実を批判するものは理想である。
(矢内原忠雄『矢内原忠雄全集』18巻)