パリと屠畜と新右翼

 『おぱらばん』。先週東京行きの新幹線の中で読み終わり、フランスの小地方都市の小さな広場に一枚一枚きっちりと敷石を置いていくような手応えの文章を堪能しました。
 心をこめて手入れをされてきた端正な古い家という感じもする文章世界。
 わざと漢字を多用しているところも、端正なたたずまいという雰囲気を加速させますねえ。珈琲とか硝子とか。

 15の短編がありますが、特に気に入ったのは表題作の「おぱらばん」と、「貯水池のステンドグラス」、「珈琲と馬鈴薯」など。パリから郊外へという動きが、この後、『郊外へ』を書く人だなとなんとなく納得。(『郊外へ』はこの後だと思ったけど違うかも。文芸のことはよー分らんです。)

 しかし。

 私の中の瞬間的ブームは、既に堀江敏幸ではなく、鈴木邦男なんでありますよ。この振れ幅は何だという気もしますけど、実はこの間に屠畜も入ります。
 なんだかすごい組み合わせ。
 パリと屠蓄と右翼(^_^;)。

 屠畜というのは、一般的に「屠殺」と呼ばれている行為です。動物の命を絶って人間が食べられるように加工する。
 食料を生産しているという点では、農家や漁師の人々と違わないのに、屠畜関係者や動物の皮を扱う人々に対して、どういうわけか日本社会は冷たい視線を投げてきた。
 これが私にはどうしても理解できないのですが、『世界屠畜紀行』(内澤洵子著、解放出版社)の著者ウチザワさんも理解できず、世界各地の屠畜という行為を見て回り、その様子をスケッチし、その仕事に従事する人々に対して、各地の人々はどう見ているのかをレポートしました。それが、この本。(というよりも、まず何よりも内澤さんは屠畜という行為を愛しているのですね。)
 日本での屠蓄および革加工についても、何章にもわたって詳細に書いてくださっています。
 よくぞ書いて(描いて)くれました!
 私は、ずっと知りたかったんですよ、スーパーで並ぶパックされたお肉がそうなるまでに、どのような過程を経るのかを。
 『ファストフードが世界を食いつくす』にアメリカでどうしているのかは書かれていましたし、シカゴにいたとき、かつてシカゴを有名にしていた巨大な屠畜場についてのテレビ番組を通して、1900年代初頭の屠畜の映像は目にしていましたが、日本ではどうしているのかは、さっぱり分らず、どうすれば知ることができるのかもよく分からなかった。
 なので、繰り返しますが、よくぞ描いて(書いて)下さいました、ウチザワさん!

 豚や牛がスーパーに並び、近年流行した(してる?)革製品がお店に並ぶまで、どれほどの人の手を経ているか、この人たちのおかげでお肉が食べられ、おいしい内臓をいただき、革製品を使えるのだと思うと、感謝、感謝です。
 肉をさばくのも、革を剥いでなめすのも職人芸。すごい!
 今橋龍一さんが豚を捌くところを見てみたいと本気で思いました。(私に血がどばどば出る屠畜を直視できるかどうか、ちょっと微妙だけど。)

 他にも、アラブ世界の屠畜の話(血に手を浸して家の壁にぺたぺた手形をつけるというのは驚き!肉を食べたぞという証しらしいですが)、沖縄のヤギの話、ジャワの豚の話、韓国の犬の話など興味のつきない話のてんこ盛りで、息もつきせぬ面白さであります。モンゴルや韓国における屠畜と仏教の関連は教えられましたし。
 というわけで、お勧め!です。

 鎌田慧さんの『ドキュメント屠場』や平川宗隆さんの『沖縄のヤギ〈ヒージャー〉文化誌』も読んで見たいなあ。

ドキュメント 屠場 (岩波新書)

ドキュメント 屠場 (岩波新書)

 それで今、瞬間的に(?)はまっている鈴木邦男さんについてですが。
 といっても、読んだのは『愛国者は信用できるか』と『公安警察の手口』だけなんですけどね^^;。
 後は、彼のウェブサイト。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/index.html

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)

公安警察の手口 (ちくま新書)

公安警察の手口 (ちくま新書)

 今まで、私は右翼と聞いただけで毛嫌いし、ぱたっと耳が閉じて何も聞きたくありません状態になるのが常だったのですが、こうも世の中勇ましくなってくると、言論で戦うと宣言している新右翼の旗手である鈴木さんが何を語っているか読んでみようか…という気になりまして、読んでみた次第。 
 私は、天皇のために死にたいとは全然思っていないし、三島由紀夫もピンとこないので、思想面において鈴木氏を全面的に支持する気はないです。が、愛国心についての彼の言説には感心しました。
 近代以降、国家と個人が愛国心の争奪戦をやってきた歴史についても、国家が愛国心を手中に収めるとロクなことはないということについても、うんうんと頷いてしまいました。

 話が先走るが、自決するのは皆、憂国の故だ。愛国で自決する人はいない。愛国は戦争のように強制された死になる。
 では、愛国と憂国の違いだ。
 まず愛国は保守的であり、憂国は革新的である。(中略)
 憂国は、この国の状態を憂うるのだ。もちろんこの国は好きだし、愛情はある。しかし、これでいいのかと怒り、憂うるのだ。ここがダメだ、ここがダメだと指摘する。愛国は長所・美点を探すが、憂国は欠点を指摘する。(60〜61pp)
 愛国は現状維持的で、憂国は変革的だ。憂国は、このままの日本でいいのかと、破壊的、否定的な情念になる。「反日」と変わらないところまでゆく。(66p)
 こう見てくると憂国は暴発的な決起に結びつき、危険な連鎖に見える。愛国は現状維持的で平和なように映る。しかし、一概にそうは言えない。憂国は、時に暴力的になり、暴発し、連鎖する。しかし、あくまでも個々人の自発的な意志に任されている。(中略)その点、愛国は一見平和的だが、暴発すれば国民全体を巻き込む。うむを言わせない。(中略)愛国は〈戦争〉に突き進み、全国民を強制する。それも長い年月、強制する。
 憂国は部分的で短期的だが、愛国は全体的で長期的だ。「憂国の士」はそれほどいない。しかし、「愛国」は全員が強制される。「愛国心を持つのは当然だ」「国民の常識だ」と言われる。戦争の時は特に顕著だ。その全体の流れに対して消極的な人間は、「非国民!」「売国奴!」と言って袋叩きにされる。つまり、愛国心は、そうでない人間を排除し、罵倒するために使われることが多い。これは危険なことだ。「憂国」よりも「愛国」のほうが何百倍も凶暴だし、残忍だ。(68p) 

 鈴木邦男さん、良くぞ書いてくれました。(今日はこればっかり。)

 あと、そういう視点もあるなあと思ったのは、日の丸、君が代を変えると、過去の日本と画然と断絶してしまい、あの戦争を戦った日本と今の自分は関係ない、過去の「責任」からもすべて免除されるとなる、それはまずい、明るい過去と同時に、失敗や暗い歴史を見つめて反省しながら生きていく、そのためにも日の丸、君が代はあったほうがいいという意見。

 もう一冊の『公安警察の手口』は、全然知らない世界なので、へ〜と驚くこと多し。
 いやはや怖い世界です。公安のリストにあんなに簡単に載せられて、一生付きまとわれるなんて、冗談じゃないですよ。

 やはり公安もKGBがやるような手を使って人をスパイを仕立て上げていて、どこの国もこういう世界は同じなんだなあと思いました。

 鈴木さんもいろいろ経験されているんですねー。「ころび公妨」を撮った森達也監督の『A』は貴重だったんだ。あんなことで逮捕、起訴なんてたまらないですよ。

 ともかく、公安より刑事警察を強化すべきなのに、公安がこうも力を温存し、自らの存在意義を保つためにかえって問題を引き起こしているというのは、ショック。(もちろん、鈴木さんの主張を鵜呑みにしていいのかという問題がありますが、彼の主張はある程度筋が通っていると思いました。廃止するしないというよりも、まず公安について開かれた議論をするというのは必要だと思う。)

 日本政府は、郵政改革の前にまず公安調査庁を廃止したほうがいいのでは?ついでに自衛隊調査部の質も上げないと意味ないよーな。

 昔々、ソウルで水曜日デモ(元慰安婦の方々と共に日本大使館前で毎週水曜日にするデモ集会)に参加した時、大使館の敷地内から、目つきの鋭い男性が一人、こちらをチェックしていて、私の隣にいた人があれは公安だよと教えてくれたことがありました。その人は本当に公安警察の人だったのかなあ。

 旧東ドイツの秘密警察のような性格を秘めている公安が拡大すると日本はどうなるのか、治安を楯に人権や言論の自由をどんどん侵害してきている現状にどう対抗するのか。
 戦前の憲兵の話が他人事ではなくなってきたかも…。杞憂だといいな。

 またしばらく留守にします。今回は、コメント欄を凍結してます。(一度やってみたかったのであった。←おいおい)

 はるる