クルリン
『国家は僕らをまもらない』を少しずつ読んでいます。
国家は僕らをまもらない―愛と自由の憲法論 (朝日新書 39)
- 作者: 田村理
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2007/04/13
- メディア: 新書
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この本は朝日新書のヒットだと思うなあ。
少なくとも私は、憲法問題に関して、自分の中に深々と根を下ろしてしまっているものの正体をやっとはっきり見たと感じました。
すなわち、
- 国家=権力は国民を守ってくれる「頼もしい正義の味方」と信じていること。
- 憲法は権力への制限規定ではなく、国民の行動規範であると無意識のうちにみなしていること。
まだ読書途中ですが、今の時点で衝撃だったのは、こうした点でした。
今まで憲法に関する本を読んだり、歴史を学んできて、国家=権力は国民を守ってくれないと頭では(辛うじて)分かっていても、心では、国は正義の味方だとどこかで疑うことなく思っている自分がいる。
憲法は国家=権力がやってはならないことを定めた法だと知識としてはあっても、少しも実感しておらず、いざ本音として私の体から出てくるのは、私たち国民が憲法規定を守りましょうという思いばかり。
田村さんがお書きになっているところの、理屈はわかっていても、いざ現実の中となると、途端にクルリン!と音をたてて正反対を向いている人の一人なんだ、私は。
・・・と痛いほど感じました。
私は、自分が立憲主義の何たるかを全くわかっていなかったという恐ろしい事実に気付いてしまいましたよ。
ううう、私は学校で一体何を教わってきたのかしら。
ま、そのことが分かっただけでも、この本を読んだ収穫はあったということですね。
他の国々の人々は、国家=権力の恐ろしさとか、憲法とは何かが分かっているのかなあ。
立憲主義が生まれてきた西ヨーロッパ社会は分かっているのでしょうが、例えば独裁政権をさんざん味わった韓国とか、ラテンアメリカ諸国とかそういう国々も、自分たちの血の値を払って民主主義を獲得してきた歴史があるので、彼らのほうが日本よりも民主主義を体で分かっているのではないかと思うときがあります。
日本の民主主義を見ていると、種が落ちた所が、土が浅かったのですぐに芽を出したが、日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまったという、聖書のたとえ話を思い出してしまいます。
特に、戦争の苦労も知らず、生まれたときから民主主義という言葉が溢れていた時代の子である私は、私の中の「民主主義」がメッキでしかないかもしれないことにいささか恐怖を感じています。
とにかくクルリンをしないことに努力する所存です。
はるる