魂の値打ち

 この間、友が置いていったS・キングの短編集『幸運の25セント硬貨』の中の何篇かを読みました。

 

幸運の25セント硬貨 (新潮文庫)

幸運の25セント硬貨 (新潮文庫)

 これは日本で言うところの「無間地獄」を描いたものということになるなあと思った「例のあの感覚、フランス語でしか言えないあの感覚」(つまり、デジャヴュ=既視感のこと)も面白かったですが、うーむこれは…と感じ入ったのは中篇の「なにもかもが究極的」でした。

 これは、ある超能力を持った少年がさる組織にスカウトされて、家をもらい週給70ドルをもらい、日常の様々なものをただで支給されながら己の特殊能力を使った「仕事」をしているうちに、自分が何をしているのかに気がついて組織に反逆するという話です。
 
 私が感じ入ったのは次の部分。強調部分は引用者の私によります。

 特殊能力の持ち主がよけいな質問をしたり、迷惑な行動に出たりするのを予防するため、どうやって催眠術をかけたり、クスリをのませたり、ほかの特殊能力の持ち主に近づけたりするのか。そんな特殊能力の持ち主が、たまたま真相に気づいても逃げられないようにするには、どうすればいいのか。早くいえば、キャッシュを持たない生活にその人間を追い込めばいい・・・たとえ小銭でも、よぶんなカネを貯めこまないことがルール第一条になっている生活に。じゃ、そんな罠にひっかかるのは、どんな種類の特殊能力の持ち主か?世間知らずで、友達がすくなくて、自己認識ってものがない人間だ。わずかな食料品や週給70ドルとひきかえに、特殊能力をある自分の魂を売りわたすような人間だ。なぜなら、そいつは自分の魂がそれぐらいの値打ちしかないと信じているんだから。(96〜97pp)

 この中篇は、自分に対する評価の低さが何をもたらすかを描いた小説とも言えると感じた次第。
 「自分の魂がそれぐらいの値打ちしかない」と思っている主人公の特殊能力によって、多くの人が死に追いやられるという恐ろしい話なので、考えてしまいました。

彼が大勢の人間に死をもたらす「仕事」をする最大の理由は小説中に独白の形で書かれていますが、彼がその「仕事」につくことになった背後には、自分を認めてもらったという嬉しさ、喜びがある。だから、大したことのない報酬で「魂を売りわたす」わけです。
 ここが怖い。
 何か、今の日本に存在する空気に通底する怖さがある。

 「世界にひとつだけの花」などに代表されるような言説(あれは歌ですが)には違和感を覚える私ですが、自分への眼差しは相当に重要な問題だと思っています。自分だけではすまない破壊力を持ちうるものだから。

 世間の評価に振り回されないで自分自身をよしとする、ありのままの自分を受け入れるためには、やはり何か超越的な存在が必要なのではないか、神とか仏教でいう法(ダルマ)とか、とにかく、垂直軸の何かが必要ではないかということを思っています。
 人間同士の関係性で完結する水平軸だけでやろうとすると、今の日本を覆っている「自己実現」とか、スピリチュアルブームを底辺で支える「本当の自分はこんなものではない、今は自分以外の何かのせいで自分本来の姿になっていないのだ」という気分に絡めとられてしまうのではないか。
 そこには「魂」ではなく、「我」という利己的なものが問題になっているような気がします。それは、「魂」ではなく「心」の問題になってくるのかも。

 などと思うのは、今『「心」が支配される日』を読んでいる最中だからか。

 

「心」が支配される日

「心」が支配される日

  
 この問題はじっくり考えて見たいです。

 はるる