赦しを支えるもの その2

 アーミッシュが赦しを真剣に実践しようと努めるのはなぜか。

 

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

 アーミッシュの母体となっている再洗礼派は、「弟子の道」を重んじる教派で、キリスト者の生活で重要なことは「イエスに従う」、もっと言うなら「倣う」ことだと考えている。(イミタチオ・クリスティですな。)

 そして、イエスに従う(倣う)ために、アーミッシュが最も重視している聖書の箇所は、「山上の説教」(マタイ5〜7章)、わけても「主の祈り」は別格扱いの最重要の祈りである。この他、マタイ18章の「赦さない家来」のたとえ話と、ルカ福音書に書かれた十字架につけられる際のイエスの言葉「父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23:34)も非常に重視されている。(141〜143pp、146p)

 そして、アーミッシュの中で正しい生活への鍵として強調されているのは、神との関係以上に他者との関係なのだ。(145p)

 アーミッシュアメリカの主流文化の間は非常に異なっており、その違いは「自己についての見解の相違」によって生じている。

 アメリカ文化では、個人主義(個人の権利、自由、好み、創造性の重視)が非常に強い。それは創造性に溢れ、豊富な選択肢を用意する社会を生むというプラス面を持つと同時に、自己愛文化、個人的欲望に取り付かれた社会を生むというマイナスを抱えている。

 それに対し、アーミッシュ中心的価値をコミュニティにおいている

 彼らの価値観のキーワードは「自己否定、従順、受容、慎ましさ」である。個性は失われることはないが、制約を受ける。アーミッシュたるもの、ひとり我が道を行くのではなく、教会の権威、究極的には神に、服従せねばならないのである。(150p)

 そして、聖書を逐語的に読む再洗礼派の子孫であるアーミッシュは、次のような確固たる信念を抱いている。

 

 「赦されるためには、赦さなければならない」

 「主の祈りを唱えるとき、私たちは、人を〈赦す〉ように私たちのこともお赦し下さい、と父なる神に祈る。人を赦さない者が赦されることはない。……人を赦すのを拒むものは、自ら愛と慈悲のおよばないところへ行く。我々が日々犯す罪を神に〈赦して〉ほしいなら、我々も赦し、受けいれ、愛さねばならない。」(155p)

 

 (マタイ18章のたとえ話で)、神の赦しを表している王の赦しは、家来の行為に〈先だって〉なされた。つまり、王の憐れみ(スプランクニゾマイー引用者注)は、〈最初は〉家来の行為とは無関係に示されている。しかし、憐れみの〈継続〉は、家来の行為に影響された。家来が、他者に憐れみを示さなかったために、王は最初の赦しを撤回した。
 このたとえは、神の赦しの継続は、我々が進んで他者を赦すかどうかにかかっている、というアーミッシュの理念を明瞭に示している。(158p)

 長くなりましたので、続きはまた今度。(というか、もういいか?)

 

これは、Amish way of lifeを紹介するVOAニュース。
 
 はるる