キリスト教への提言と反戦僧侶

 風邪はよくなってまいりました。

 1968年に出版された鈴木範久、ヨゼフ・J・スパー共編『日本人のみたキリスト教』という本を三分の二ほど読み進んだところです。

 

 第一部が「日本のキリスト教への提言」という題名で、キリスト教ではない学者たちに四つの質問をインタビューしてまとめたものとなっています。

 これが、なかなか興味深い。鋭いし、痛いところを突いているし、60年代のキリスト教がどのように観られていたのか、どんな問題を抱えていたのかが見える。

 四つの問いのうち、最初の二つは、回答者自身のキリスト教との接触体験、キリスト教が日本社会に果たしてきた役割をどう考えるかというものです。そこもなかなか学ぶものがありましたが、個人的には後の二つが特に強い関心をもって読んだ質問でした。

 その質問とは:

1)キリスト教は、現在日本で伸び悩んでいると言われますが、その原因をどこにお求めになりますか。

2)今後日本のキリスト教の課題は、何であるとお考えになりますか。


 各人はどのように答えているか、いくつか以下に抜書きします。


1)について

 一番大きなのは、その布教法ではないでしょうか。家の近くにも一つの教会がありますが、会堂のできるまでは、それでも多少積極的に伝道しているようにみえましたが、出来上がってしまうと、「教会に着なさい」とも言わないで、ただ待っているだけに見受けられます。このようにサラリーマン化した神父や牧師の態度が問題だと思います。(藤田富雄:宗教哲学


 (キリスト教は)・・・とくに戦後の没宗教・無宗教のムードのなかで後退していったようにみえます。現在(引用者注:1967年ごろ)、宗教らしい活動をしているのは、日蓮系の諸宗教、なかでも創価学会でありますが、これらの活動に比べますと、キリスト教は、この没宗教、無宗教のムードを不可避の傾向であるとみなしています。これは、宗教として少しだらしがないと思います。この没宗教、無宗教の背後にある問題を、なぜ探りあてようとしないのでしょうか。(神島二郎:日本政治思想史、日本民俗学


 もっとも根本的な原因は、職業的伝道者の与えられた環境が恵まれすぎているところにあると考えます。キリスト教の伝道者が伝道しないという点では、既成宗教の神職者や僧侶と何ら変わりはありません。同じ既成宗教のなかで、神道や仏教は、戦後それでもひとり立ちしているのに対して、キリスト教がそれを行なっていないのは、なお悪いのではないでしょうか。
(中略)しかも伝道者の意識の上で、民衆の側に立つのではなく、欧米を目標において、そこまで引き上げるという態度がみられます。そうなると制度にしろ組織にしろ、上から下へ与えるものとなり、また民衆の意識の上でも、キリスト教が真に自分のものとなりません。欧米のもの、よそものとしてしか受けとられません。(笠原一男:日本史)


2)について

 これは日本の仏教についても言えることですが、信者が信者を作ることが大切ですね。また米川村の話になりますけれど、神父は布教をしていないのではなく、家庭訪問を行なったりして結構よくやっています。だが、それだけでは非常に弱く、信者の動くことが肝腎です。
 信者が動き出すためには、何か共通の目標みたいなものが必要で、それが今日のキリスト教にはないのではないでしょうか。(堀一郎:日本宗教史・宗教民俗学


 ・・・最大の課題は結局、伝道者が、まず精神的にも経済的にもひもつきであることを廃して自律することにありましょう。その上で伝道者が民衆の側に立って、その悩みの救済にあたることは必須条件です。占領下の時代以降日本の教会は、生ぬるい湯の中に浸ることに慣れました。この徹底的な自己反省があるべきです。(笠原一男:日本史)


 カトリックの場合から考えますと、現代のカトリックは思想的な幅をもつ宗教であり、フランスや中南米では、左派、右派の意見が活発に提起されて、その多様な可能性が反映していますが、日本では、それが教会の内部にはあっても、現象化しないところに問題があるように思います。(村上重良:日本宗教史)


 今でもそのまま通用する内容が含まれているなあ。

 日本の教会はそれなりにもがいてきているはずなのに、その努力が報われないのか、方向性のずれた努力なのか、そもそも努力という言葉に値するようなことをしてこなかったのか?

 考えるべきことは多い。

 
☆ ☆ ☆

 他に読んでいる本に『戦争は罪悪である 反戦僧侶・竹中彰元の叛骨』があります。


 

戦争は罪悪である―反戦僧侶・竹中彰元の叛骨

戦争は罪悪である―反戦僧侶・竹中彰元の叛骨

 社会問題に対して宗教(特にキリスト教)はどう関わってきたか、関わることができるのか、というのが私の大きな関心のおおもとにあって、そこにRFK(お、この単語がここに出てくるのも久し振り)やキング牧師から、第二ヴァチカン公会議と日本の教会やラス・カサスまで含まれているわけですが、特に差別、戦争、貧困に対する宗教の関わり方に興味があります。

 というより、自分はいかに生きるかという問題と直結するから、考えないわけにはいかないという感じですね。

 というわけで、仏教側の反戦僧侶という題材に惹かれて、この本を手に取った次第。この方については、NHKが今年の10月に番組を放映しているのですが、見逃してしまいました(;_:)。

 まだ竹中さんの生涯をたどっているところなので読了したら、また感想を書きたいと思います。



 竹中彰元は真宗大谷派の僧侶でしたが、この宗派は仏教の中では最初に戦争責任告白をしています。

 戦前、真宗大谷派は「真俗二諦」や「一殺多生」という考えを用いて戦争協力をしたことは、『戦争は罪悪である』に記述されています。

 昔、これについては、僧侶で研究者の菱木政晴氏の本で読んだことがありました。
 『アジア民衆法廷ブックレット 連続〈小法廷〉の記録⑩ 宗教の戦争責任』(樹花舎 1996年)という本でした。

 菱木さんの『浄土真宗の戦争責任』を読むともっとよく分かるのではないかと思いますが、いつか読もうと思いつつ読んでない〜。


浄土真宗の戦争責任 (岩波ブックレット)

浄土真宗の戦争責任 (岩波ブックレット)


 その代わりではないですが、氏の最近のものでは『市民的自由の危機と宗教』を読みました。


市民的自由の危機と宗教―改憲・靖国神社・政教分離

市民的自由の危機と宗教―改憲・靖国神社・政教分離


 この本で菱木氏が書かれていることが、私には腑に落ちたとはいえず、あるところがどうにも納得がいかないので、もう一度じっくり読んで考えないといけないと思っています。

 『非戦と仏教』も読まないと。


 

非戦と仏教―「批判原理としての浄土」からの問い

非戦と仏教―「批判原理としての浄土」からの問い


  話がとっちらかったまま、本日はこれまで(長過ぎ!)。

 はるる