No Logo

 ありがたいことに、仕事が休みの日。

 で、そういえば買っていたのに読んでなかったな〜と開いてしまったが最後、区役所に行かねばと思いながら、ついつい朝から読みふけってしまったのが、『ブランドなんか、いらない』(原題がNo Logo)。


ブランドなんか、いらない―搾取で巨大化する大企業の非情

ブランドなんか、いらない―搾取で巨大化する大企業の非情


 これを読んでいて、1999年に初めてアメリカに行ったとき、この国は大企業にやられてしまっている国だという印象を強く持ったことを思い出しました。


 まだ読んでいる途中ですが、ここには『ファストフードが世界を食いつくす』や『ルポ 貧困大国アメリカ』、映画『アメリカばんざい』(http://www.america-banzai.com/)が語っていた内容と通底する世界が広がっています。



 ブランドはもの作りから離れ、高品質を意味するものから、イメージ、ライフスタイルとなり、カッコいいことを意味するものに変貌した。
 

 公園に行って、靴(ナイキが新たに発売を計画しているスニーカー)をそのへんい置いて隠れる。それを見つけた子供たちは大喜びさ。夢みたいだってね。これで子供たちにナイキの重要性を実感させて、ナイキが人生で一番大切だと言うように仕向ける―ガールフレンドより大事だってね。
(89p ナイキのデザイナーの言葉)

 人生の殆どはナイキより大事なことだらけだって!


 メディアも音楽もスポーツもブランド化し、ストリートから生まれる黒人若者文化は巧妙にブランドに取り込まれ、大学以下、学校という公共空間にまでブランドは食い込んでいく。

 

 若者市場が手つかずの金脈だということは明らかだ。若者は一日の大半を学校で過ごす。さて問題は、その市場にどう入り込むかだ。(101p 「第4回キッド・パワー・マーケティング会議」の小冊子より)


 学校専用のテレビ局は、北米の学校にある提案をし、多くの学校と契約を結んだ。
 

 10代向けの12分の教育番組の合間に、1日に2分間だけ広告を流させてほしい、と彼らは申し出た。多くの学校が同意し、放送はほどなく始まった。生徒がそれを見ることを強要されるのはもちろんのこと、教師も、とくにコマーシャルの間はボリュームを変えられない。

(中略)

 同局はいま1万2000の学校に入り込み、800万人の子どもたちをつかんでいることが自慢である。(103p)

 これは1998年ごろの状況なので、今はどうなっているのやら。

 学校のカフェテリアのメニューには映画会社が子供をターゲットに宣伝している映画にちなんだ名前が続々と登場し、アニメ映画のキャラクターは教材にまで進出する。

 ナイキは学校の教育の一環としてどう宣伝すればいいかを考えさせ、レストラン・チェーンは子供たちにピザ・バーガーのコンセプトとパッケージを考えてもらい、それが商品化される。

 ブランドが大学にまで進出すると、さらに軋轢は増す。

 大学当局とブランドがどんな契約をしているのか、通常学生や教員は知ることができない。

 ウィスコンシン大学マディソン校当局がリーボックと結ぼうとしていた契約内容が契約前に発覚したが、その内容は教授陣や学生を激怒させた。

 

 その契約には「悪評禁止」の条項があり、大学関係者は同社を一切批判してはならないとされていた。
「本契約の有効期間内および失効後しばらくの間、当大学はリーボックを非難するいかなる言動も公式におこなわない。さらに当大学はコーチを含む全ての大学職員、代理人、関係者による、リーボックおよびリーボック清貧、関連広告会社、その他のリーボックに関係するものへの批判がなされた場合は、そのすべての言動に対し速やかに必要とされるあらゆる適切な処置をおこなうこと。」(109p)


 ブランド企業とタイアップした研究は、その研究結果が企業に都合が悪いものであった場合、発表が阻止される。

 

 アメリカの大学での企業の研究協力についての94年のある調査では、企業による介入のほとんどが密やかにおこなわれ、それに対する抗議もさほどなかったという。此の調査では、調べたケースの35パーセントで企業が研究結果の出版物への発表を阻止する権利を保持しており、調査された学術組織の53パーセントが「出版は遅れることはある」と認めている。(113p)

 
 かくして、大学人は意識改革を行なう。

 

 考え方をもっと進めて、「ここは会社だと思うことにしよう」と腹を決めたのです。(113p フロリダ大学のジョン・V・ロンバルディの発言)

 アメリカは、民主主義をイラクに教える前に、自国内で起こっている企業による言論の不自由をどうにかしたほうがいいのでは…。

 大学の自治なんて吹っ飛んでしまってますねえ。

 はるる