ガザ報道に関して

 ガザ、あるいはパレスチナ問題に関しマスメディアの歪みが気になるので、それに関連したものを載せます。



 転送されてきた京都大学の岡真理氏からの要請です。

 ガザ市では市街戦が始まりました。
死者も負傷者もひたすら増加の一途をたどっています。
(フランスの「緊急ガザ」によれば、攻撃21日目、死者は1105名(子ども346、女性100)、負傷者5130(重態500)です。)

 地元の京都新聞に寄稿しました。『私たちは殺戮に「否」と言ったか?」というタイトルで、1月12日付け朝刊に掲載されました。

 「アラブの会」の中村聡さんが、同会のWEB通信にアップしてくださいました。

 http://arab-club.hp.infoseek.co.jp/kyotoshimbun.html

(中村さん、ありがとうございます。)


 アフガン空爆のときは、朝日、京都新聞など、メディアの側から原稿を依頼されました。京都新聞はあのとき、専門を異にする識者5名(目取真俊(沖縄)、佐藤卓巳(メディア論)、おか(アラブ文学)、あと2名、忘れましたが、たぶん国際関係とかだったと思います)に寄稿を依頼、アフガン問題について連載をしました。


 アフガンのときも、イラク戦争のときも、たとえば中東研究の専門家がテレビに呼ばれ、解説をしました。でも、今回、そういうことがいっさい、ないように見受けられます。まっとうな中東研究者がスタジオに呼ばれたら、イスラエルによる「封鎖・
占領」こそが問題の根源であることを主張するでしょう。


 ハマースのロケット弾攻撃を問題の起点にすえて、ハマースのテロVSイスラエルの自衛の戦いというマスメディアが設定した枠組みがいかに虚偽であるかを告発するでしょう。それを敢えてしないマスメディアは、殺戮幇助をしていると言っても過言ではありません。


 そこでみなさんにお願いです。

 専門家、有識者のみなさん(なんの専門でもかまいません)、

 自分からメディアに働きかけて、ご自身の専門の立場から、今回の出来事についての論考を新聞(とくに地元紙)に寄稿してください。こちらから働きかけて、マスメディアに、別の意見を、別の論調を作りましょう。そして、寄稿された場合は、その情報を寄せてください。

千葉大学の栗田禎子さん(アラブ現代史)が、信濃毎日新聞に寄稿されたとうかがっています。どなたか、栗田さんの論考をみなで共有できるようにしていただけたら、たいへんありがたいです。


 宗教関係者のみなさん、

 宗教者の立場から、現在の事態に対する意見を新聞等に寄稿してください。
団体としての見解を、イスラエル大使館に送るだけでなく、マスメディアで
表明してください。
 また、関係者の方々は、宗教者にそうするよう働きかけてください。


 市民のみなさん、

 地元メディア、全国メディアにご自身の意見を投稿してください。
 また、ネットで流れているような情報を掲載しないことで事実の隠蔽、殺戮幇助に加担しているマスメディアに抗議してください。
 ガザで何が起こっているのか、攻撃の真の目的は何なのか、専門家の解説を載せろと地元紙、全国紙に要求してください。


 きのうの朝日新聞は、攻撃開始後、イスラエル政府がプレスカードをもっている外国人記者にもガザの立ち入りを認めないので、ガザの中のようすを報道できないと、言い訳めいた記事を載せていました。

 でも、イラク戦争が剣呑になり、爆弾テロや外国人の誘拐が頻発すると、全国紙は、いっせいにイラクから特派員を引き上げました。記者にもしものことがあったとき、社の責任になるからです。だから特派員は、エジプトのカイロ支局から、バグダードにいるイラク人助手に電話取材したものを記事として流していました。

 ガザに入れないなら、なぜ、いま、同じことをしないのでしょうか?
 
 ガザで起きていることを世界に知らしめるために、命を顧みずに、ガザにとどまった外国人活動家たちがいます。

 ガザから発信し続けているパレスチナ人もいます。10日の大阪の集会では、ガザ在住のパレスチナ人に電話連絡してその肉声を録音したものが紹介されました。一般市民にできることが、なぜ、マスメディアにできないのでしょうか?

 「ジャーナリズム宣言」をするなら、ジャーナリズムの責任を果たせと、新聞社に要求してください。マスメディアは、「読者の反応」をとても気にします。


 地元紙に働きかけてください。地元紙は、地元の市民の存在を大切にします。

 みなさんの声を、どうかメディアに届けてください。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

 おか まり


 というわけで、栗田禎子氏の文章を以下にアップします。情報の共有の一環として。


 これは、http://ameblo.jp/hina120hina/entry-10193329957.htmlよりコピー&ペーストしたものです。アップしてくださった方、ありがとうございます。

「繰り返される「ナクバ」(破局)――イスラエルのガザ攻撃の闇」(栗田禎子)

 
 パレスチナガザ地区では、イスラエルによる空爆開始(12月27日)、地上部隊の侵攻(1月3日)以来、既に約700人近くの死者、3000人以上の負傷者が出ている。イスラエルハマスのロケット攻撃に対する「自衛」を名目としているが、実質はガザの住民全体を巻き込んだ無差別攻撃であり、封鎖下で報道・医療関係者の立ち入りもできないなかで、「虐殺」に近い惨状が続いている。


 衝撃的な事態であるが、この衝撃はとりわけ、昨年(2008年)が、1948年のいわゆる「ナクバ」(=アラビア語で「大破局」の意)から60年という節目の年だったことを思い起こすと、一層深いものとなる。「ナクバ」とはイスラエル建国に伴うパレスチナ人の虐殺や難民化という事態を指すことばであり、60周年にあたる昨年は、この事件の意味を問い直すさまざまな試みが日本でも展開された。


 広河隆一氏によるドキュメンタリー映画『ナクバ』が、広範な市民(「1コマ・サポーター運動」)に支えられて完成したのはその最も特筆すべき成果と言えるが、これ以外にも、日本中東学会大会記念シンポ「パレスチナ問題と日本社会」(5月)、東京・広島・京都での連続国際シンポ「ナクバから60年」(12月)等、多くの取り組みが行なわれた。


 その過程で明らかにされたのは、現在の中東の事態を理解・解決するためには、1948年に何が起きたのかを(イスラエルを含む)全当事者が原点に立ち返って検証し、共有することが必要不可欠だということであり、パレスチナ問題とは、入植者国家による現地住民の殺戮・土地収奪の歴史であったことを直視せねばならないということであった。そしてこれは、同じく植民地支配や侵略戦争の経験を持つ日本にとっても決して他人事ではない。


 中東学会でのシンポの席上、講演者の一人平山健太郎氏(元NHK解説委員)は、第三次中東戦争(1967年)以来のイスラエルによるガザ・ヨルダン川西岸占領を日本による朝鮮支配「日帝36年」になぞらえ、日本が今なお東アジアにおいて歴史問題を抱えるのと同様、イスラエルもその侵略や占領を反省・清算しない限り、憎悪に取り囲まれ続けるだろうと指摘した。


 しかしながら今回のガザ攻撃は、イスラエルがこのような洞察を全く欠いていることを示しており、それゆえに衝撃的である。建国後60年を経て、イスラエルはなお、1948年、そして1967年におこなったと同じ侵略、占領下の住民に対する虐殺を繰り返している。連続国際シンポでの、「ナクバは終わっていない」という発言(板垣雄三氏)は的を射ていた。「ナクバ」は「60周年」どころか、今また我々の眼前で繰り返されているのであるが、これは長い目で見れば、イスラエルという国家の中東における存立基盤自体を掘り崩していくだろう。


 ガザの事態はまた、国際社会全体の前途にも暗い影を投げかけている。今回のイスラエルの攻撃は直接的には2月の総選挙に向けての国内世論対策と言われるが、より長期的には、(2006年のレバノン攻撃の場合同様)、イスラム原理主義組織ハマスに対する攻撃を、アメリカの対イラン戦争への導火線としていくことが計画されているともされる。イスラエルの蛮行に対し、アメリカは支持の姿勢を示し、オバマ次期大統領も「憂慮」を表明するにとどまっているが、現時点で原則的な立場を示すことができなければ、オバマ政権もそのまま中東における新しい戦争へと引きずり込まれていく可能性がある。(終)


 岡真理氏が寄稿されたものは以下です。


 京都新聞2009年1月12日(月)朝刊より

                                                                                  •  

イスラエル軍による、パレスチナ自治区ガザ地区への攻繋が始まって二週間がすぎた。国連の運営する学校も爆破されるなど、パレスチナ人の死者は八百人以上に上る。泥沼化が懸念される中、世界の共通課題としてパレスチナ問題に取り組む京都大准教授の岡真理さんが寄稿した。

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私たちは知らなかったーホロコーストのあとで、ドイツ人はそう言って自らを免罪しようとした。「知らなかった」ということが、もし言い訳になりうるとすれば、それは、「知っていたら必ずや黙っていなかった」という含意があるからだ。だが、本当にそうなのか?私たちは、人間が収容所に閉じ込められて、なす術もなく殺されているのを知っていたら、必ずや「否」の声を上げるのだろうか?
 
では今、ガザで起きていることは?百苔十万の人間を出口なしの檻に開じ込めて、空から海から陸からミサイルを砲弾を浴びせて殺鐡する。そんなことが、世界注視のなかで公然と、半月以上にわたり続いている。まるで、「知っていたら、おまえたちは本当に声を上げるのか?」と問わんばかりに。
 
この「公然性」は私たちをみな、殺識の共犯者にする。いや、私たちはその前から共犯していたのではないか。過表三年間、封鎖されたガザで、水も電気もガスもガソリンも、ライフラインのすべてをイスラエルにコントロールされ、かろうじて生命だけを維持するような「生かさず、殺さず」の状況に百五十万もの人間がとどめおかれてきた。だが、私たちはそれに異議を唱えず事態を許容し、そうすることで殺人者たちにメッセージを送っていたのではないか。パレスチナ人の生など、私たちには関心がないと。ガザという監獄でパレスチナ人が「これが人間か!」という生を強制されていたとき、私たちが大きな声で「否」を訴えていたならば、果たして今回のこの殺織はありえただろうか。殺人者たちに青信号を出したのは私たちではないのか?
  
ガザは今「監獄」から「絶滅収容所」に変貌した.「アウシュヴィッツ」「ヒロシマ}と同じく、「ガザ」は人問が人間であることの臨界を意味する言葉となってしまった。「ホロコースト」とは、「ヒロシマ」とは、私たちにとっていったい何だったのか?「人間の命は決してこのように扱われてはならない、人間とは決してこのように死んではならない」という命題は、これらの悲劇から私たちが掴み取った、決して手放してはならない真理ではなかったのか。
 
このような出来事のあとで、ガザの人々はなお、人間の善性を信じることができるのだろうか?彼らは許すことができるのだろうか?ミサイルと砲弾の雨のなかで逃げ惑っていた彼らを、知っていながら見殺しにした世界を。ガザを瓦礫の海にして、八百名以上を犠牲にすることで、イスラエルは証明したいのだろうか?世界は人間がこんな形で殺されるのを知っていても止めはしないのだということを。このとき、破壊され尽くしたガザの街とは、倫理的に破壊されたこの世界の似姿になるだろう。
 
だが、攻撃が始まってから二週間ほどのあいだに、市民社会のネットワークはインターネットを駆使し、グローバルにつながりながら、世界各地で、緊急の抗議行動を組織し、「否」を訴えている。人間はなんぴともこのように死んではならないと。攻盤をテロに対する自衛と位置づける日本のマスメディアは報道しないが、テルアビブでも三日、ユダヤ系市民を中心に一万人以上が一大反戦デモを行い、封鎖と占領による尊厳の破壊こそが問題の根源だとして大義なき戦争を告発した。
 
たとえ停戦が実現しても、封鎖と占領が続く限り、問題は解決しない。爆撃で虫けらのように命を奪うことも、封鎖で尊厳ある生を奪うことも、人間性を顧みない点において等しい。私たちは訴え続けなければならない。なんぴとも決してこのような生を生きてはならないと。


 昨日だったか、テレビニュースで日本人医師でガザに入った人のインタビューを観ました。

 その方が属している団体のブログ。

 http://blog.e-stageone.org/

 広河隆一氏の「ガザ報道に携わるメディア関係者及びその報道に接する人々へ」

http://daysjapanblog.seesaa.net/article/112508511.html

 こんなことしか、今の私にはできませんが…。

はるる