光の教会

 私にとっての連休は昨日から始まったので、体がさっさと連休モードに突入し、今日はよく眠りました。体力がないので、すぐにお疲れマダムになってしまうのだ。
 そして、たまっている積読本の中から、これは図書館への返却日が迫っているから読まねば!と引っ張り出して読了したのが、『光の教会 安藤忠雄の現場』です。

光の教会―安藤忠雄の現場

光の教会―安藤忠雄の現場

 これは、大阪府茨木市にある日本基督教団茨木春日丘教会が、建築家安藤忠雄に設計を頼んでから、教会が完成するまでのノンフィクションです。春日丘教会はこの本の表紙にあるように、壁が十字架の形になっていて、そこから強烈に光が入ってくるという構造になっている、コンクリート打ち放しの安藤忠雄らしい建物です。(この十字架の故に「光の教会」と呼ばれているわけですね。)
 私は建物を見るのが好きで、日本各地の武家屋敷を見たり(角館や知覧は本当に感動しました)、洋風建築を見たり(「建築探偵」藤森照信先生の本は愛読書)、シカゴでフランク・ロイド・ライトの設計した家を本を片手に見て回ったりしてます(ライトの建築への日本の影響についての講演会にものこのこ出かけたりしました)。けれど、一つの建築物がどのような人々が関わって作り上げられていくのかということについては、無知でした。
 なので、『光の教会』を読んで、これほどまでに大勢の人々の共同作業なのだということに、驚くと同時に感動しました。
 特に、驚かされたのは、コンクリートの打ち込みに関すること。私はこれまでコンクリートなんて機械でかき混ぜて流し込むだけのすごく簡単なものなのだろうと勝手に考えていたのですが、読んでびっくり、聞いて驚けってなもんで、本当に質実剛健で美しいコンクリートの壁を作ろうと思ったら、こんなに手間と職人と計算が必要なのかと、ため息が出ました。建築家=安藤忠雄から始まって、構造設計担当、現場監督、鉄筋職人、型枠職人、電気関係の職人、左官職人(コンクリート建築に左官屋さんが関わるとは知りませんでした)などなどいろんな人が協力して、一つのコンクリートの壁が出来る。建築の全工程全体では22位の業者が関わるとかで、本当に一つの建物が建つというのは、すごいことであり、共同作業の賜物なのだということが、実感として分かりました。

 鉄筋コンクリートをきれいに仕上げるために、鉄筋職人に鉄製のゲージを渡して、間隔を一定に揃えた鉄筋を組むよう頼む、コンクリートを流し込むための型枠パネルの表面にペンキを塗ってコンクリートの表面のきめを細かくし、均一な美しい表面に仕上げるよう型枠職人に頼む、しかも、コンクリート打ち放し=コンクリートそのものが建築の見せ場となるため、安藤忠雄は木痕跡(もっこん)=P痕と釘跡をも均一に美しくと要求する…など、まあ次から次へと難問が降りかかり、それを設計事務所の担当者と現場監督が「なんでそんなことせなあかんねん!わしにまかしとき!」と抵抗する職人をなだめ説得しつつ、クリアしていくという、テレビゲームにでもなりそうな話。その後も続出する問題をクリアせねばならなかった現場監督の那須さんは最後の方、毎日胃薬を飲んでいたとか。気の毒に…。
 ちなみに、木痕=P痕というのは、コンクリートを流し込む時に液体の圧力に型枠が耐えられるように支保工と呼ばれるもので型枠を支えるるのだそうですが、その際、型枠パネル同士の間隔を固定するためにセパレータという道具を使う、そのセパレータにはプラスチックキャップをはめ、そのキャップの痕が必ずコンクリート表面に残り、それをP痕(プラスチック痕)、もしくは、かつて木製キャップを使っていた名残で木痕と呼ぶんだそうです。はあ、難しい。

 この本に出てくる人は皆、好感の持てる魅力的な人々なのですが、最も印象に残ったのは、安藤忠雄の仕事を赤字と分かっていて引き受ける小さな建築会社、竜巳建設の社長、一柳幸雄(いちりゅうゆきお)さんでした。一柳さんは安藤忠雄が信用を寄せている人で、とっても無口で穏やかな、いかにも日本的リーダーなんですが、なんといいますか、いい味出してらっしゃるのですよ。現場にせっせとやってきて、せめて掃除でも…とやっていると部下に社長はなさらなくてもいいです、と取り上げられてしまうので、「また社長が水まいている」と職人さんや社員に言われながら、毎日、道路に水をまいていたとか、安藤事務所のスタッフが一人残業していて、建物の原寸図の書き方が分からず途方にくれた挙句、夜遅くに助けを求めた先が一柳社長で、社長は親切に夜中過ぎまで原寸図の指導をしたとか。(一柳さんは、この教会堂建設の途中からガンに蝕まれ、建築完成の2年後、亡くなられました。)

 安藤忠雄は「光」を長い間テーマとして探求してきた建築家で、この教会堂を建てるにあたっては、更にそこに「質素」というテーマが加わったということですが、その背景にはヨーロッパのシトー会修道院と、アメリカ合衆国のシェーカーの建築、家具に貫かれる美的哲学からの影響があるらしい。で、それを建築家として追求するあまり、安藤さんはなんと、この壁に出来た十字架部分にガラスをいれるのよしましょうと、教会に提案しちゃうんである。無茶苦茶…。
 確かに、ガラスを通さない方が、光は強烈により印象的に差し込むらしいですが、しかしねえ。しかも、この安藤さん、一時建築資金が足りないから、屋根ができないという危機的状況になったらなったで、未完の建築、それは悪くない、教会に人が集まるのに、屋根は必要ないだろう、雨の時は傘をさせばいいんだ、予算がないから今回は屋根はなし、また数年たって浄財を集めて屋根を作る、サグラダ・ファミリア聖堂のようではないか、いいなあとなってしまうのです。教会の人は困ったでしょうねえ。

 結局、なんとか屋根は出来、十字架を背に説教せねばならない牧師さんが、そこから風、雨は吹き込み、音も容赦なく入ってくるから、それだけは勘弁してくれと抵抗して、十字架にもガラスが入ります。この教会、いつか見に行きたいなあ。この教会では深く祈ることが出来そう。もっとも夏暑く冬寒いので、季節を考えないとだめだな(安藤さんの信念により、冷暖房がないそうです、あな恐ろしや)。
 
 ちょっとだけ書こうと思っていたのに、こんなに長くなってしまった。それでは、本日はこの辺で〜。

 はるる