English is the de facto lingua franca

 なんとなく、ゴーン社長が乗り込んでくる前の日産社員の心境である今日この頃、英語の力を少しでも伸ばそうと、「実践ビジネス英語」を聴いています。

 昨年からは聴くだけでなく、とにかくその日のビニェットを暗記してしまう!を目標に、来る日も来る日も通勤の途中にブツブツ言いながら歩く、怪しいおばさんと化しつつ、減退していく記憶力に抗って、ワタクシなりに努力しているわけです。(これで、少しはできるようになるでしょうか…)

 しかし、そうやって暗記していると、たまに英語をめぐるビニェットに出て来る会話内容に腹がたつことが。

 昨年の後藤洋子シリーズで、英語をマスターした洋子に比べてアメリカ人は外国語が苦手でダメだという話から一転、ビジネスもアカデミックの世界も英語が共通語だから、アメリカ人は外国語を学ぶ必要がないと主張し、文法や語彙が正確なだけではだめで、相手の文化(要するにアメリカ文化だ)もよく理解していないといけない、私の機知に富んだジョークに笑えないのでは困る(という言い方ではなかったけど、要するにそういうことです)という優秀なアメリカ人ビジネスマン・ウーマンのご発言に「ん?」。


 今年の梅村聖四シリーズでも、英語は世界の共通語だから、文法や語彙がある水準に達してているだけでなく、イントネーションや発音なども(ネイティブの方々に)理解してもらえるようにあるレベルに達していなければならず、アメリカ人の発音に近づくためのトレーニングを受けると、いろいろいいですよというやりとりに、「え?」とひっかかってしまう私。

 もちろん、英語ネイティブの発音により近い発音になるにこしたことはなく、より英語能力および文化などの理解も深まって、よりよいコミュニケーションがアメリカ人ととれることは素晴らしい事ですが、どーして、非英語圏の人間だけそういう多大なる努力をせねばならず、ネイティブの人々(アメリカ人)は私達の文化や言語を知る努力をしなくていいのだろう?と、何かそこにひっかかってしまうのでありますね。

 この辺りの会話を覚えようと繰り返していると、何か腹が立ってきたりして(←未熟者の私。)

 そんなことに怒っている暇があったら、そういうことをアメリカ人と議論できるだけの英語力をつけろよって話ですけどね…(^_^;)。

 まあ、そもそも『実践ビジネス英語』で出て来る価値感が、往々にして私のものとは異なっている為、英文を暗記していると、内面がきしむ感じがしてしまうのですが。

 で、最近『世界の英語を歩く』という本を読みまして、その中で、激しく共感した部分を以下に引用します。(引用にあたって、読みやすいように、引用者である私が、適宜改行しています。)


 

世界の英語を歩く (集英社新書)

世界の英語を歩く (集英社新書)

  

(前略)英語はいろいろな言い方が許容されてはじめて、国際共通語として成立するものなのです。
 
 専門家はこのような視点に立ち、現代英語の状況を世界諸英語(World Englishes)と呼んでいます。(中略)この考え方を本格的に究明した学者の一人、ラリー・スミスイースト・ウェスト・センター教授は、早くも1983年に次のように語っています。


 “When any language becomes International in character, it cannot be bound to any culture......A Japanese does'nt need an appreciation of a British life style in order to use English in his business dealings with a Malaysian...English ...is the means of expression of the speaker's culture, not an imiitation of culture of Great Britain, the United States or any other native English speaking country.”


(どの言語も国際的性格を帯びると、特定の文化に縛られるわけにはいかなくなります。……日本人は英語を使ってマレーシア人とビジネスをする際に、イギリスの生活様式を理解する必要はどこにもありません。英語は話し手の文化を表現する手段であり、イギリス、アメリカ、あるいは他の英語母語国の文化を模倣する手段ではないのです。)


 また、自分たちに適したインド英語を発展させてきたインドの言語学者グプタ教授が、インド人がインド英語に自信を持ち、決してひるむことがないことについて、以下のように説明されています。

 The English used in India cannot but take its shape from the contextual spectrum of its speakers―their lifestyle... and the very ethos they breathe. The norms of acceptability changes from place to place and time to time.


(インド英語は当然のことながら、その話し手の状況のなかで形成されます。彼らの生活習慣、そして精神そのものを反映します。正用法の規範は地域や時代によって変化するものです。)

 さらに、インド人がインド人ふうの英語を使うことは、自分は英語を話してもイギリス人ではなく、インド人であるというアイデンティティーの表現でもあるのです。

 私はある会合で、インド人に“Are you an American?”と問われたことがあります。“No. I'm a Japanese”と答えると、“Why do you speak English like an American?”(日本人なのにどうしてアメリカ人のような話し方をするんですか)と言われました。これには本当に考え込んでしまいました。

 おお、これらの言葉をGreat Lakes Inc.やH&B(『実践ビジネス英語』の主人公たちが務めているグローバル企業の名前)のエリートビジネスマン・ウーマンの方々にお聞かせしたい。

 さすがはインド人。堂々としてらっしゃる。
 (とはいえ、確かにインド人の英語は往々にして聞き取りづらくて、苦労しますけど。)
 

 さらに、次のマレーシアの英語に対する考え方にも感動しました。

 マレーシアの英語教育で興味深いことは、英語に対して現実的(practical)で実利的(utilitarian)な地度を確立していることです。


 英語は英米文化を理解したり、その行動規範に同化する手段ではなく、科学技術やビジネスや国際交流の道具であるということが、はっきりと自覚されています。そのために、ネイティブ志向は適切ではないと判断されています。

(中略)

 ・・・1975年の指導要領では、英語教育の目標をコミュニケーション能力の育成と定めました。ある専門家はこの方針について、こう述べています。

“The aim of communication...will probably lead in the future to a greatly simplified form of English used by the average Malaysian, but this is considered a small price to pay for the promotion of the national language. In the national education policy, English is now viewed and treated as a utilitarian language, a tool to be used instead of an object to be admired.”


(コミュニケーションに目的を定めると、近い将来、単純化された英語が発生し、普通のマレーシア人はこれを使うことになるでしょう。これはマレーシア語を国語として振興するための小さな代償です。マレーシアの教育政策では、英語は実利的原語と認識されており、使用を目的とした道具なのであり、鑑賞の対象ではありません。) 


 これらの英文こそ、私の心に刻み、これからの英語生活(?)を生きていこうと、心に誓ったのでありました。

 『実践ビジネス英語』レベルの英語が話せるにこしたことないので、これからも精進してまいりますけれども。

 はるる