あれよあれよと時は過ぎ
6月に仕事の山を一つ超えて、1週間ほど息抜き(といっても、完全に仕事から逃れられたわけではないのですが)をしたとき、ブログを更新しようかな、とそのタイトルまで考えながら、結局何もせず(^-^;。
ちなみにその時につけようかなと思っていたタイトルは「あんこ食べつつ浄瑠璃聞いて赤毛のアンを読む」でした。
つまり、たまには、はるるさんもこういうのを読んで息を抜いたら?と友人が貸してくれた『和菓子のアン』を読み、登場人物の極端なキャラ化が気になりつつも、話は結構面白くて(仕事小説としても読めるし、和菓子についてちょっと詳しくなれます)、思わず続編の『アンと青春』も購入してよんでしまったんですね。
まあ、話としては面白いけれど、一回読めば十分で二度読もうとは思わなかったですが…。
で、それに勢いを得て、前々から読みたいと思いつつ後回しにしていた、三浦しをんの『仏果を得ず』を読み、こちらの方が小説としてちゃんと生身の人間が生きているなあと感じました。
主人公の健太夫の真直ぐに努力する姿が眩しい(未来ちゃん=ミラちゃんもね)。
この小説に手を出した直接のきっかけは、テレビで文楽観たからですけど。かつて、ラジオで義太夫節が面白い~と聞いている変な女子高校生で、もともと人形浄瑠璃が好きだったこともあり、よしっと読んだ次第。
そして、ネットで文楽の舞台を探しては、やっぱりいいわ~と義太夫に耳を傾けておりました。
そして、締めは『東大の教室で赤毛のアンを読む』で、これは、『赤毛のアン』の最後、マシューが亡くなった後のアンとマレラについて描かれた章が、原作と日本語訳では大きく異なり、日本語訳の方が極端に短い、つまり、ばっさりと原作をカットしているが、それはなぜか、など魅力的な謎を取り上げつつ英文学を学ぶ本で、面白く読みました。
特段、『和菓子のアン』を意識して選んだわけではないのですが。
この本を読んで、初めて、小説の登場人物にはラウンドとフラットという二つの型がある、などの文学を考察する際の初歩的知識を得て、ははあ、『和菓子のアン』の登場人物はフラットで、漫画的にキャラ化されているので、一回読めばいいや、になるのか、それに対して、『仏果を得ず』の方は主人公の相三味線の兎一郎さんはフラットだけど、主人公の健はラウンドだな、などと勝手に解釈して悦に入ってました。
なんて書いていると、それだけで結構な分量に。
何を書こうと思って、これを書き始めたんだったか。
とりあえず、思い出せる読んだ本の羅列をしておきます。(仕事で読んだ本は除く)。
わけても、すごく衝撃的だったのが『殺人犯はそこにいる』で、こんなこと本当にあるのかとびっくりしました。「足利事件」に関心があったので手に取ってんですが。なんというか、警察も検察も科警研も、要するに人の子、罪びとである人間の集団だなということをつくづく感じましたわ。
どうやって削除するのかがわからん…。Kindle版で読んだわけではないのだけど。
香港情勢が気になって以下の本を読みました。
『香港デモ戦記』
『香港と日本』
『香港を知るための60章』
『香港はなぜ戦っているのか』
香港がなぜあのようなデモをしているのか、背景などは理解できたけど、今のような中国化がこのまま進められていったら、と思うと心配でたまりません。
あとは、『菜の花の沖縄日記』(もう少し前に読んだものですが)。これは、映画も観に行くつもり。
『韓国 現地からの報告』。大変、ためになりました。
グラフィックノベルの『草』。すごいとしか言いようのない作品。翻訳していただいたことにも感謝。
これも、今年の春ですが、古井由吉に一瞬はまりかけました。
といっても、読んだのは『文学の淵を渡る』と『半自叙伝』。それと『人生の色気』ですけどね。小説に手を出したらアブナイ気がして読んでません(^-^;。
あ、またやってしまった、文庫版で読んだんだけど~。
もう少し、これらの内容を分散して書けばいいのにね。
ではでは。はるる
コロナ禍のもとで
あれよあれよという間に、新型コロナウイルスに世界が乗っ取られたかのごとくに、いろんなことが変わりました。
まだ読んでいる方がおられるかどうか分かりませんが、皆様はご無事でしょうか。
テレワークだのオンライン会議だの、自分には関係ないと思っていたら、あっという間に、そういうことをするようになって、なんだかもうびっくりです。
でも、以前にも増してPCを使わざるを得ない時間が増えたのが辛くて、ますますブログからは遠ざかってしまっています。(そうでなくても遠ざかってるけども。)
仕事に追われる傍ら、最近少々はまっているのが大岡昇平というのは、これ如何に。『成城だより』全3巻をつい読んだのがきっかけですね。
前から、ぼちぼち読んでましたが、この人の好奇心の強さ、深さ、そして徹底的に突き詰めるその集中度に驚かされました。高等数学を数学者から学ぶわ、作曲を学んで作曲してみるわ、なんだなんだと驚いてしまいます。
あと、今日しかない!と映画館に行って『ビッグ・リトル・ファーム』(The Biggest Little Farm)を観ました。無理して観に行ってよかったと思える映画でした。生態系が復活していく様を目撃し、世界に存在するものが皆、それぞれの役割を担っていることがよく分かました。
なんだか、とても力をもらった感じです。
今、はまっているのは
お久し振りです…というのも、もうあほらしいくらいにブログはご無沙汰ですね。
前にブログを書いたときは、新型コロナウィルス(我が家ではシンコロと呼ばれている。なんだかイヌころみたいで、かわいい感じになってしまうけれど)がこんなに猛威を振るうなどと、全く夢にも思いませんでしたが、本当にびっくりです。
中国も心配ですが、イタリアをはじめヨーロッパの状況も、胸が痛みます。
やっぱりカトリックだから、イタリアに親近感があるのか、毎日はらはらしながらニュースを追っています。全世界の患者さんと医療従事者の方々のために祈っていますが、本当に恐ろしいことです。
ドイツやフランスに住んでいる友人にメールで状況を聞いてますが、外出禁止令はなかなか厳しいものなんだなあということを改めて感じました。きちんとした書類がないと食料を買いにいくにも外に出ていけない、とか。
愛知県もじりじりと患者数が増えているので、ある日、県境封鎖とかなったら困るなあと思いつつ、うがい、手洗いを必死でやっています。
なるべく人込みにも近づかないように…と思いつつ、映画館に映画を観に行ったりはしてます(しゃべらないから大丈夫かな、なんて理屈つけて)。
観たのは次の3本。
『彼らは生きていた』
これが戦争の実態なのか、と息を呑みました。平気でごろごろ戦死者の死体が出てきますから。戦争なんて、戦争映画と違って、こんなに汚くて、寒くて、つらくて、醜いものなんだと、改めて感じました。
『名もなき生涯』。
涙を流しつつ観ましたが、観ている間、ずっと自分はこんな風に抵抗し続けられるだろうか、ということを自問し続けてました。
鈴木邦男さんは前から結構好きで、何冊かご著書も読んでいましたが、この映画を観て、はまりました~。
これまでに読んだ鈴木さんの本は
ほかにも、もう1、2冊読んだような気もしますが、まあ、こんな感じです。
で今、新たに鈴木邦男さんの本を仕事の合間に読んでます。
映画鑑賞後に読んだ鈴木さんの本は以下のもの。
「日本の分」について考える――鈴木邦男シンポジウム1・2 (ネプチューン“ノンフィクション”シリーズ)
- 作者:鈴木邦男/鈴木宗男/中島岳志
- 発売日: 2014/03/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
こういう本を読みつつ、鈴木さんの思想的な度量の広さと、自分と異なる思想を受け止める強さと深さに感服し、私は、思想的な器量が本当に小さいなと反省モードに入っているはるるです。
また、この方の読書の仕方がすごい。
全集を読破してしまうとか、並大抵ではないです。特に、現代日本思想体系とか、近代日本思想体系とか、ああいう思想系の全集をとにかく全部読んでしまうという本の読み方には、とても刺激を受けたし、自分のつまみ食い的な、自分に都合のよいものだけを取り入れていこうという本の読み方、向き合い方について、猛省を促されました。
そういう全集読みをしてみたいとは思うけど、そんな時間と体力と気力が私のどこにあるんかい(^-^;。
というわけで、前回は稲垣えみ子にはまってましたが、ただいまは鈴木邦男にはまっています。鈴木さんの読書術関連著書や昭和維新関連の著作なども、もう少し読んでみようと思います。
本当は、鈴木流に、よし、鈴木邦男を全部読むぞ!と決心せなあかんのでしょうけどね~。そこまでの根性はないかも。(「右翼」とされているからか、鈴木さんの本って図書館でもそろってないし、図書館はずっと閉館しているし。ぼちぼち購入したりしっつ読んでいるところで、全著作読破は無理かも。)
ついでに、鈴木さんのブログとういかHP「鈴木邦男をぶっとばせ」もぼちぼち読んでます。これも、勉強になります。
はるる
あけましておめでとうございます
明けましておめでとうございます。
このブログ、完全にほったらかし状態で、気が付けば、あらま、2020年になってしまいましたよ(^-^;。
もう、ブログをどうしようかしら。
昨年は6月頃からだんだん、異次元の忙しさ(これまで体験したことがない)という感じになってしまい、仕事でパソコン使っているので、それ以外の時間ではパソコンに触りたくなくて、ブログ更新なんてあり得ません!という状態でした。
それが12月初旬くらいまで続いて、よく体が持ったと我ながら褒めてやりたいような、もう二度とあんなふうになるのはごめんだというか。
なのに、もしかしたら、今年も結構いろいろ忙しくなりそうで…。
でも、いやですねえ、忙しいって言ってしまうのって。なんとか、ゆとりを持ちたいです。
とかなんとか言いつつ、いきなり、年末には稲垣えみ子にはまって、彼女が書いた本を5冊立て続けに読んだり、相変わらずの読書をやっております。
きっかけは、文庫本の『アフロ記者』で、あ、この人、中日新聞で一人呑みについて連載している人だと、手に取って、購入したのが運の尽き。
文庫本を読み終わった翌日には、書店に他の本はないかと買いに走っておりました。
それで買ったのが、『もうレシピ本はいらない』。
これを携えて長崎に出張に行き、これを読み終えて、また本屋に走る。
またその本屋にはちゃんと稲垣さんの本が揃っていて(まるで私を待ち受けていたかのように)、『魂の退社』『寂しい生活』『人生はどこでもドア―リヨンの14日間』を立て続けに読む始末。
いやはや。
さすがに『アフロえみ子の四季の食卓』は買ってないですが。
なんかね、同じ年ってのもあるし(年齢がばれるが)、3・12後に生活スタイルを大幅に変えた、その方向性に共鳴したりで、いろいろと力をいただき、嬉しかったんですよね。
ま、こんな感じで生きております。
たまに更新したら、読んでいいよという方がまだ残っておられましたら、お読みくださいませ。
はるる
初めて小川糸を読む
友人から、これ、はるるさん向きだと思うから読んでみては、と勧められ貸していただいた小川糸の『針と糸』を読みました。
小川糸さんの本を読むのは初めてで、しかも小説ではなくエッセイ集が入り口だったわけですが、こ~れ~が、なかなかよろしかったのです。
ドイツの人々が土日をしっかり休んでメリハリのある暮らしをしているというのは、昔、犬養道子の本で読み、最近も辛淑玉さんのある雑誌に連載されているドイツ通信(正確なタイトルは失念)の中で読み、また、ドイツに住んでいる友人からも聞いてましたが、改めて小川糸さんの文章で読むと、あら不思議、自分もそんな風に生きたい!という気持ちがむくむくと湧き上がってきたではありませんか。
というわけで、日本ではなかなか難しいけど、土日はなるべくのんびり、平日はめいっぱい働く(でも、夜は働かない)を現実化しようとです。、ただいま努力中です。
あと、『針と糸』の中で、これは忘備録的に書き留めておこうかなと思ったのが、ラトビアの十得。
常に、正しい行いをしましょう。
隣の人と仲良くしましょう。
自らの知識や能力を社会のために惜しみなく差し出しましょう。
まじめに楽しく働きましょう。
それぞれの役割を果たしましょう。
向上心を忘れずに、自らを洗練させましょう。
家族や友人、故郷、自然など衣食住のすべてに感謝しましょう。
どんな状況におちいっても朗らかに明るく受け止めましょう。
ケチケチせず、気前よくふるまいましょう。
相手の立場に立って寄り添いながら生きていきましょう。
なかなか楽しい人生訓だと思う。
これから、小川糸さんの小説も読んでみようかなと思っています。
やっぱり最初の一冊は『食堂かたつむり』でしょうか。
あと、読了したのは、『安部官邸vs.安部官邸NHK』と『バイリンガル・エキサイトメント』。
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『安部官邸vs.NHK』は、テレビのニュースってこんな風に取材され、作られているのかというのが、そもそも新鮮で一気読みしてしまいました。
当たり前ですけど、テレビのニュースって自然に降ってくるものではなく、誰かが調べて裏付けを取り、文章化し、それが放送されてはじめてニュースになるわけですが、その辺りを意識してNHKニュースを観てなかったです。
あと、一つひとつの順番と長さに結構、意味があるというか、深謀遠慮があるんだなとういことも学びました
というわけで、元号騒ぎをかなり斜めに見ていた私。
で、この本の肝は
森友事件は森友学園の事件ではない。国と大阪府の事件である。(中略)おかしなことをしたのは森友学園ではなく、むしろ国と大阪府のほうだ。
ということを主張し、この主張に論拠を与えているところですね。
『バイリンガル・エキサイトメント』はリービ英雄さんの新刊で、本屋でみかけて、ついふらふらと買ってしまいましたが、リービさんの三つの講演や、多和田葉子や温又柔らとの対談、そしてエッセイ集がてんこもりの読んで満足の本でした。
「令和」騒ぎの時、『万葉集』『万葉集』と連呼され、本が売れているというので、『万葉集』を英訳して全米図書賞を獲得したリービさんのインタビューもあるかしらと思ったけど、気が付いた限りでは全くなくて、それが残念です。
あと、無邪気に『万葉集』と騒いでいるのを見ると、戦前にいかに国家が『万葉集』を利用したかということに思いが行き、どうも落ち着かなくなってしまう。
『万葉集』自体には何の不満もなく、好きですけどね。
はるる
桜満開の中の読書
こちら、「はるるの勝手に独り言」です。
あちらこちらで桜が今を盛りと咲いていて、うららかな日です。
仕事の傍ら、ぼちぼち読書しています。
ところで、前回の投稿の時に最後に触れた『守教』の中に、帚木氏がカトリック信者に確認してくださっていればと思った明らかなミスが一つ。
それは、小説中に繰り返し出てくるロザリオの祈りとして、ファティマの聖母の祈りもするとなっているところです。ファティマの聖母出現は20世紀のことで、キリシタン時代にはあり得ないので。
なお、『守教』に出てくるキリシタンたちが言う言葉が、マザーテレサの言葉のもじりだったり、ラインホルト・二ーバーの祈りのもじりだったりして、非常に心構えとして立派だったのには、読みながら背筋が伸び、自分の信仰を顧みてしまいました。
今は、少しずつ堀田善衛の『ミシェル 城館の人』を読んでいるところです。
全三巻本のうち、第一巻は読み終わって、今は第二巻の途中。
フランスのカトリックとユグノーの抗争が繰り返されていたヴァロア王朝末期の様子がよく分かります。堀田さんの勉強ぶりと筆力に脱帽しつつ読んでいます。
で、その合間に友人から、今ベストセラーの『一切なりゆき』を読みました。この樹木希林語録を読んで、その我が道を堂々と歩んで動じない生き方に、人間としてすごかったんだと樹木希林さんへの認識を新たにしました。
おおっと思ったのは、娘さんが希林さんが先に死んで、お父さん(内田裕也)が残ると困ると思い、占い師に尋ねたら、その占い結果が「お母さん(樹木希林)が死ぬときには即座にお父さんの襟首つかまえて逝くから大丈夫」というものだという箇所ですね。
この個所を読んだときは、まだ内田裕也さんは生きておられ、「ふ~ん、本当にそうなるのかしら」と思いつつ読んだのですが、先日、本当に樹木希林さんが亡くなって半年ほどで逝去されたというニュースに接して、お~っ!と驚いた次第。
あと、亡くなった人つながりというわけでもないですが、ドナルド・キーンさんの自伝を購入して、ちょっぴり昨日から読み始めました。
まあ、ほかにも仕事関連で読んでいるものもありますが、それはマニアックなので横に置いときます。
はるる
自宅療養中の読書
無事に退院はしたものの、やはり開腹手術でしたので、結構体への打撃は大きく、今は仕事を休んで家で養生しています。
で、養生の間に、これまで積読状態だった本を読もう!と思ってぼちぼち読んでいます。
恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』を夢中で読み、感動した勢いで青柳いづみこさんの『ショパン・コンクール』も読みました。(『ショパン・コンクール』の方は、最近少しずつ歩くようにしていて、その流れで近所の本屋さんを覗いたらあったので、つい購入)。
『蜜蜂と遠雷』に登場する輝かしき天才たちもすごいですが(三人ともそれぞれ持ち味が違っていて、みんな好きですね~)、私が一番共感したのは、天才ではない(であろう)高島明石でした。
これ、今年映画化されるようですが、一体、風間塵のピアノを、本に書かれているごとくに表現できるのかしら?と思ってしまいます。彼の音を作り出さないとならないピアニストはさぞかし大変であろう。
それに、栄伝亜夜のピアノもね。
王道を行くマサル・カルロス・レヴィ・アナトールのピアノが、実は一番再現(?)しやすいかも。
『ショパン・コンクール』の方は、2015年のコンクールの様子をNHKで観ていたので、それを思い出しつつ読みました。
素人の私には、皆さん上手いですね~としか思われないのに、プロが聴くと、こんなに個々のピアニストの欠点が露わになるのかというのが、この本を読んでの一番の驚きです。
あと、コンクールの過酷さと、審査の内幕があれれという感じだったのが、意外というか、まあそうだろうなというか。
それから、『はじめての明治史』を読み、『信仰と医学』を読み、『天皇と日本人』を読みました。
『信仰と医学』はルルドについての話で、カトリック系の本だと聖母出現とその後のベルナデッタの話で終わるところを、ルルドについてどんな本がどんな視点で書かれたかとか、その後の奇跡の実例を医学的に考えるとか、ほうほうと読みました。
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『天皇と日本人』はやはり外国人の視点はちょっと違うな~と思う所あり。
そして、つい昨日、帚木蓬生さんの『守教』上・下巻を読み終わり、感動の余韻に浸っています。