ハウル

 仕事の憂さ晴らしに一気読みしてしまいました、『魔法使いハウルと火の悪魔』。

魔法使いハウルと火の悪魔―ハウルの動く城〈1〉

魔法使いハウルと火の悪魔―ハウルの動く城〈1〉

 この原作、ある一点を除けばなかなかの出来と思いました。一気に読ませるだけの力がありましたよ。また読んでみると、原作では男性のサリマンを映画で女性に変えた際、この登場人物とこの登場人物を混ぜて膨らませたんだなとか、この一言をここまで膨らませて映画の背景として使ったのかなどなどが垣間見えて、面白かったです。

 ただ、映画ではソフィーのほうがハウルより、一層魅力的と感じましたが、原作では、ハウルのほうがより素敵だなと感じました。原作のソフィーは、私にとってはいささか、がみがみとものを言いすぎ、性格がきついと感じられたので。といっても、しっかりしていて、「運試し」と言いつつ自力で道を切り開こうとする、自立しているソフィーは好きですけど。女主人公が冒険する昔話はあれど、こういう性格の女性はいなかったと思うと、ソフィー・ハッターはやはりフェミニズム以後の時代でしか書かれえない女性像だったということでしょうか。(継母のファニーや妹のレティーやマーサも然り。)
 映画と原作におけるソフィー像の違いは、日本社会とイギリス社会で求められている女性像の違いを反映しているのかなとも思ったのですが、考えすぎ?

 さて、私が納得のいかない「ある一点」とは、物語を魔法が本当に存在する国インガリーに限定しなかったという点。なぜ11章があるのか、理解できない。どうしてインガリーと現実のウェールズとをつなげなければならなかったのでしょうか?この点については、魔法が存在する世界だけで話を展開させた映画が正解と思います。
 ハリー・ポッターの世界も現実世界と魔法使いの世界が入り混じっているわけで、現代は、そうしないとファンタジーが書けない、難しい時代なのでしょうか??

 ところで、ファンタジーに関しては乏しい読書体験しかないにもかかわらず、勝手なことをほざくと、今回私は、ファンタジーとは、神がいると成立しない文学なのではと思いました。ファンタジー世界では、悪魔は存在を許されるのに、唯一絶対、全知全能の神は存在し得ない。(あるいは、キリスト教が存在しない世界といってもいいかもしれない。)
 映画でも原作でも、ハウルたちの世界の町に教会はなさそうだったし、ソフィーは決してどんな状況になっても「神様助けて!」とは言わない。(英語とかフランス語とかの吹き替え版だとOh,my God!とかMon Dieu!などとソフィーは言うのかな?言ったとしても慣用句だから構わないか。)ハリー・ポッターの世界も、悪魔(みたいなものですよね?あまりちゃんと読んでないもので)は復活するけど、人間は魔法を使って自分たちで頑張るだけで、神頼みはしない。それに最近の吸血鬼は強くて、十字架つきつけても平気だし。(『夜明けのヴァンパイア』とか『フィーバー・ドリーム』とかそうだったはず。)神の権威はどこへ…。

 神がいない世界。それなのに、悪魔はいる世界。こういうファンタジー世界を作り上げたのが、キリスト教国の人々だったというのが、面白いですね。キリスト教からの逃避なのか、キリスト教以前の信仰が顔を覗かせているのか。話を面白くするためには、神様が出てきては困るだけなのか。

 という辺りで、私の逃避行動はおしまい。

 はるる