悪魔という概念の歴史

 やばいことに、瞬間的にただ今私は『オーメン2』にはまってます。

 10代の頃、ダミアン君にはまってたからなあ(^_^;)。

 私のRFK好きをご存知の方は、わたしが何かにはまるとどうなるかをよく分かっておられるでしょうが、かなりすごいことになります。自分でもそれはよく自覚している。

 しかし、こんなものにはまってエネルギーを費やすのはももったいないという理性は働いてますので、どうせならこれまで読むのをためらっていた本を読むのにこのエネルギーを使おうと思いまして、読み出したのがJ・B・ラッセルによる悪魔の概念史に関する研究本。
 
 恐ろしいことに、四部作。大作です。

悪魔―古代から原始キリスト教まで

悪魔―古代から原始キリスト教まで

サタン―初期キリスト教の伝統

サタン―初期キリスト教の伝統

  
ルシファー―中世の悪魔

ルシファー―中世の悪魔

メフィストフェレス―近代世界の悪魔

メフィストフェレス―近代世界の悪魔


 ダミアン君に引かれて手を出したシリーズだから、最後の『メフィストフェレス』から読んだ。(ダミアンに引かれて専門書参りだわ)。
 正しい読み方ではないですね、全然。
 最初から読まないと、流れが分からんではないか。まったく。

 
 悪魔観の最も激しい転換期は、やはり18世紀の啓蒙主義と共に起こったそうですが、これはすぐ納得いきますね。

 この研究によると、サタン信仰が衰退した最も大きな理由の一つは、魔女信仰の衰退だったそうです。(両者、連動してますからねえ。)

 興味深かったのは、17世紀になって懐疑と軽信の緊張関係が人々の間に広がり始めてから、「黒ミサ」という新しい現象が登場したというくだり。
 黒ミサは17世紀に広がり、そしてこの世紀中に衰退して一度は姿を消します。

 黒ミサが再び日の目を見るのは、19世紀後半、文学的好事家によってでした。


 それと、ミルトンの『失楽園』で描かれたサタン像が、悪魔を高貴な存在であるかのように描いているように受け取れるため(実はミルトンの意図は全く逆)、19世紀のロマン派が見事に誤読して、そのような悪魔像をつくり上げたという指摘も、頷けました。

 大学生の頃にミルトンを読んで、ちょっとサタンはかっこいいな〜と思った馬鹿がここにも一人^^;。

 

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

 

失楽園 下 (岩波文庫 赤 206-3)

失楽園 下 (岩波文庫 赤 206-3)

 
 絶対、ロマン派的な悪魔観は今の日本の少女マンガとかライトノベルのようなポップカルチャーの一部に流れ込んでいる!


 ロマン派は、キリスト教=悪、キリスト教に敵対するもの=善という枠組みを作り、伝統的キリスト教の最大の敵がサタンであるなら、サタンは善であるという結論を導き出した。  

 ラッセル教授によれば、これは悪魔の核心的な意味に反する、哲学的に矛盾した命題だった(227p)。

 だが、ロマン派は自分たちの英雄の概念、つまり、「個人的で、ただ一人で世界に立ち向かい、自己を主張し、野心的で力強く、解放する者として、自由と美と愛へ向かう進歩の道をふさいでいる社会に反抗する」存在=英雄と言う概念を、悪魔にあてはめた。(とんでもないなー。)

 こうした悪魔観が生まれる背景には、当時の教会が振りかざしていた神が、厳しく邪悪な専制君主、身勝手で人を苦しめる神像となっていたからで、ロマン派はそれに反撥したということ・・・みたい。

 当時はまだまだヤンセニズムの影響も強かったから、罰と地獄を振り回す厳しい裁判官のごとき神様イメージへの反発ということか。

 おかげで、醜く愚かという中世までの悪魔像が、ロマン派を経て、美しい悪魔へと変容してしまった模様。

 悪魔は美少年でなければというコンセプトの『オーメン2』は、この変化あってこそ、生まれた映画だったわけだ!


 もっとも、20世紀に入るとロマン派的なサタン像は後退し、伝統的なサタン像が復活してきたそうです。それは、ドストエフスキーが洞察した「悪」にもっともよく、示されている。(第6章)

 この章の分析を読んで、ドストエフスキーを読まねばという気になりました。評判のいい新たな訳も出たことだし、読まないと…(段々、声が小さくなる)。

 というところで、長くなったので、続きは次回。

はるる