「アジアにおけるキリスト教の危機」

 宗教とは怖くて怪しいもので争いの種であり、教祖が述べた信条を狂信的に信じこむことだという強い偏見と誤解を抱いている人々。

 キリスト教などの一神教は偏狭で排他的で独善的でロクなものではないと信じている人々。

 宗教がいくら美しいことを語っていてもそれを人間は守れないのだから結局は画餅に過ぎず、意味がないと考えている人々。

 そういった人々と職業柄(?)日々接していると、硫酸の波に絶えず洗われているような気分になります。

 キリストを信じる人々の輪の中にいれば感じなくてすむ様々な感情や問いにぶつかり、キリスト教の枠の中ではツーカーで通じる言葉が外の人たちにはちっとも通用しないことを思い知らされ、自分が切り裂かれていくような感じがします。

 こうした人々の言い分に一理あると感じるだけに、なんとも苦しい。

 上記の人々が突きつけてくる問いに正面から向かい合っていると、己の信仰の薄っぺらさ、空虚さが返す刀のように自分自身に突き刺さってくる。
   
 という今日この頃であるわけですが、ふとイエズス会総長アドルフォ・ニコラス神父が3年前にConciliumに発表し、2007年に『神学ダイジェスト』に翻訳が掲載された論文「アジアにおけるキリスト教の危機」を再読しました。

 この論文、前にもまして心に響いたので、ここにいくつかの箇所をメモとして書いておきます。

 この(引用者注:アジアにおけるキリスト教の)危機は、福音化という事業の全体に関わる信用性の危機である。行動と一致しない言葉、信者の生活を変えることのない教え、生活を活性化させることのない典礼が、キリスト教の信用性を損ねている。

(中略)

 アジアにおいては、キリスト教のメッセージが生活の中で見えて来ないことで危機が訪れたのではない。結婚や約束を完遂できなかった人々と和解する能力を私たちが欠いていることが、憐れみと和解の福音を否定しているのである。たまたま違った宗教や環境に生まれ育ったというだけの兄弟姉妹を私たちが心から受け入れようとしなければ、開かれた主の食卓も神のもてなしを語ることにはならない。

 キリスト教の地球規模的な危機の根本は霊性にある。危機は、理論のレベルにあるのではない。私たちは、霊における生活についての非常に優れた理論を持っている。しかし危機は実践のレベルで起きている。

(中略)

 アジアは我々に問いかけている。なぜこれらの実践は、人々の日々の苦しみを通じてキリスト教の道の一部になっていないのか?なぜこれらの実践は、聖職者と概念的に「入信」した人々のためだけに、周囲から孤立してあるのか?

(中略)

 アジアの教会は、たいていは貧しく、多くの場所で長い間迫害を受け、そして力もなく目立たぬ存在であった。アジアの多くの司教や修道士たちは……教会のこの謙遜なあり方を幸いとしてきた。これがまさに、アジアにおいても最も意味のあるキリストの教会のイメージである。貧しい多くの人々の中にとけ込み、誰一人わけへだてをすることなく希望のもてなしをする教会である。
 そうは言ってもこれは、私たち「聖職者」からはっきりと伝わってくるイメージとは異なる。

(中略)

 アジアは、「謙遜」であるはずの教会が、どうして、「他の救済の道」を、いとも簡単に否定することができるのか、「自分たちより劣ったもの」とみなすことができるのか、理解することができない。

 自分がしていることの幾分かは以下のことであると思いたい私。

 司牧とは、基本的にも根源的にも「出会い」、つまり自分を他者へと開くことであり、危険をはらんだものである。

 そう、確かに危険だ。常に自分を揺るがされるから。

 第二ヴァチカン公会議までの、真理を知っているのは我のみ!という自信に満ちた教会の言説を読んでいると、その独善的な揺るぎのなさにへきえきしつつも、一切迷いがないのが楽だねえとちょっぴり羨ましさも感じてしまう(^_^;)。
 あの頃に戻りたいとは全然思いませんけど。

はるる