SHOAH
この土・日に映画「SHOAH(ショアー)」をビデオで見ました。4部に分かれていて、合計9時間半の長大なドキュメンタリーです。(言わずもがなの説明でありますな。)
見終わって、肉体的にも精神的にもへとへとになりました。
ASIN:B000244RS0
クロード・ランズマン監督はユダヤ人なので、この映画は「最終解決」の対象とされたユダヤ人の側からの視線で組み立てられているのは当然で、多少、ポーランド人に対してちょっと皮肉すぎるのではと感じる部分もありましたが、こういうものに中立はありえないのですから、別にいいと思います。そうしたことは、見る側が、自分でいろいろ考えて見るしかないでしょうから。見る私も戦後生まれの日本人という立場からしか見ることはできないですし。
とにかく、体験者にこれだけ語らせたということ。それも単なる思い出話の域を超えて、細部を語らせたということ。これが衝撃でした。細部の語りによって、ユダヤ人問題の最終解決が、いかに日常業務として行われていたかが怖いほど伝わってきて、なんと言ってよいのやら。
例えば、ユダヤ人移送の費用は国家予算に計上されておらず、すべて没収したユダヤ人の財産から支払われていたとか、その際の運賃は団体割引が適用されていたとか(殆どシュールな世界だ!)、4歳以下の子どもは無料でアウシュビッツまで行けた(!)とか、そんなディテールが、すごく立体的に何が起こっていたのかを示しているように感じて、本当に声も出ないで、沈黙の中でビデオを見ていました。
また、特に第四部から、ユダヤ人が「工場」で効率よく殺害されていることに対して、当時の世界が結果的には沈黙を守ったこと、世界がユダヤ人を見捨てたということ、そして見棄てられたユダヤ人のひりひりと痛いような孤独感、そういったものが、見事にひしひしと伝わってきて、映画が終わった時、虚脱状態というのか、絶句して何も話したくないような気分になりました。
カメラの前で(盗撮もあったが)語った人々の中で、特に私の印象に残っているのは、次のような人々あるいはエピソードでした。
頑なにランズマン監督を拒む今はビアホールで働く元SSの固い顔。
大変な体験を語っている途中で絶句してもう語れない、やめさせてくれと苦しむ床屋さん(収容所で殺される前のユダヤ人の髪を切らされていた)、それに対して、執拗に話さなければと食い下がって、遂に話を続けさせる監督。(このシーン、日本人なら、それならもう気の毒だからと情にほだされて話をきくの中止するなあと思いつつ見てました。)
チェコから移送されたユダヤ人たちが6ヶ月アウシュビッツで生かされた挙句、別の場所に移送すると偽られガス室に続く脱衣場に追い込まれた時、一斉にチェコの国歌ともう一つチェコの歌を歌ったという挿話。(聴いていて鳥肌が立ちました。)
そして、その場に居合わせその歌を聴いた、特務班として働かされていたチェコ系ユダヤ人(ミュラーという苗字だった)が、自分はもう生きている意味がないと感じて、共に死のうとガス室に入ると、女性たちが近寄ってきて、あなたは生き残って、私たちの苦悩、この不当な出来事を伝えるのよ、生きて!と言われたという話。それを語る時のミュラー氏の表情。
ワルシャワ・ゲットーの実態を見て欲しいとユダヤ人指導者の一人に言われて、ゲットーに行きそこで見たことを語るポーランド人。話し始めようとすると、途端に泣き出したのが、大変印象的でした。ここに、人間的な心を持った人がいる!と感じ、真の人間に触れた思いがしました。
他にもいろいろ、いい意味、悪い意味で記憶に残った人々、発言に衝撃を受けた人々は大勢いましたが、それを縷々綴っても仕方ないでしょうから、この辺りでやめておきます。
しかし、このドキュメンタリーを見つつ私が感じたのは、なぜ、私はユダヤ人虐殺に関心を持つのか、なぜ、日本軍が中国や東南アジアでしたことにではないのかという大きな疑問でした。
そして、どうして、日本人はこういうドキュメンタリーを持っていないのかということも感じました。私は、中国人の被害者が自分の体験を語るのを聴いたことがあるのか。ないのではないか。単に私がそういうものを避けていただけかもしれないですけどね。(もと従軍慰安婦の方々のは聴いたことがありますけれども。)
なぜ、日本人がアウシュビッツに関心をもって、こんな長大な映画を見るのか。それは、このビデオを見に来ていた韓国人から、出された疑問でした。この疑問が口に出された時、一瞬部屋が静まり返って、誰も何も言いませんでした。
自分でも感じていた思いだっただけに、私はぐっと詰まって、しばらく何もいえませんでした。
今、痛感しているのは、自分はもっと60年前日本がアジアに何をしたか、特に中国に何をしたのか、もっと知る必要があるということです。私はそのことについて知らないし、知ることを避けてきましたから。
この映画を見た今となっては、この姿勢は変わるし、変わらないではいられないと思います。どのように、この問題に向かい合うかは時間をかけて、やっていくしかないので、今日どうこうとは言えませんが。かつての左翼の人々のような姿勢もなんだかなと思うけれども、昨今の右翼的動きはもっといやなので、自分なりに手探りで、じりじりとやっていこうかなと思っています。(どーなることやら。)
ユダヤ人虐殺は、ヨーロッパだけの問題ではなく人類の問題だし、特にキリスト教徒としては、避けて通れない問題なので、これからも関心を持ち続けるでしょうけれども。
シカゴに住んでいた頃に読んだ新聞記事で、収容所からの生還者たちが年を取り、認知症などが始まると収容所時代の記憶がその人を支配するようになり、その結果、医師が近づいてくるのを見て、パニックになったり、世話をする人を看守だと思って逃げようとしたり、光の具合で暴れだしたり、食べ物を生き延びるために必死で隠し持ったりなどなど、様々な問題が生じるようになり、そういうユダヤ人を多く受け入れている老人ホームでは、その対策にいろいろ知恵を絞っているという内容のものがありました。
恐怖は、そこまで深く入り込んでいるんですね。当然といえば当然かもしれませんけど。すごいことをしたんだなと、改めて認識させられます。
以前に読んだ、『黙って行かせて』の不気味さが甦ります。
- 作者: クロードランズマン,Claude Lanzmann,高橋武智
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今年に入って、日本人の方が収容所の生き残りの方々にインタビューした本が出版されましたが、それを読むかどうか、考え中。
もう休みも残りわずか。仕事に戻らないといけないし…う〜ん。
- 作者: 沢田愛子
- 出版社/メーカー: 創元社
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はるる