RFKへのちょっとしたキリスト教的考察
3月30日のエントリーがあまりに長いので、ある部分を翌日分にしてみました。それだけです。
キリスト教に関心のない方は無視してください。
RFKを見ていて思うこと。
それは、人は誰でも、イエスに似た人になるよう招かれているということです。イエスが体現していた愛、憐れみ、正義などを一人ひとりが、各自が神から与えられた個性に従ってこの世に現すように招かれている。ボビーはボビーのユニークさに従ってそれを表現しましたが、私も私らしくユニークな形でそれを生きるようにと招かれているのです。
RFKは、私にとってイエス・キリストを連想させる人です。これは彼を理想化しているつもりではなく、キリスト者はみんなイエスをこの世に示す人になるよう招かれているわけで、そう意味で彼を透かしてイエスを見ることが出来るような気がする。
そして、RFKはイエスの片鱗を示すと同時に、イエスは彼をはるかに超える存在なのだということも教えてくれます。
ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人びとが、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイによる福音書 5章15〜16節)
また、RFKがRFKになっていった最期の5年間を見ていると、ある人が神から創造されたその人自身になるとき、自分自身だけでなく彼(女)が出会う他の人も解放して、各自がその人らしく生きていけるように、その人が創造された目的に達するように助けるのだということを感じます。
63年以降のロバート・ケネディから、そういうダイナミズムを感じるのです。
私たちは誰でも苦しむ人々や「不幸」に出遭うと、「スプランクニゾマイ」(はらわたが動かされるという意味のギリシア語。憤りをもって憐れむというニュアンスです)を感じている。それが、ほんのからし種ほどのものであったとしても、それは確かに「スプランクニゾマイ」です。それをどう扱うのか。この種を大きく育てられるのか。それは私たち一人ひとりの責任に委ねられている。各自がいただいている自分自身を通してそれを育てて、それぞれのやり方でそれを生きろと。
RFKはRFKのやり方でそれを生き、それが私の心の琴線にこんなにも触れるのだと私は思っています。
それ(神の国)は、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。(マルコによる福音書 4章31〜32節)
RFKと共に四旬節の大部分を過ごしてしまったけれど(^_^;)、私が彼から教えてもらったのはこうしたことでした。(←だから、神様を忘れていたわけではないと主張したいという下心)
はるる