やっと連休

 ついに長く苦しかった12月の仕事が終わりに近づき、明日からとうとう念願の連休でございますわよ、ほほほ。

 と、数日前まで頭痛にのた打ち回っていたことも忘れ、にわかに元気を取り戻した私であります。


☆ ☆ ☆

 クリスマス間近なのに、ここ数日は故あって『マタイ受難曲』を聴いてましたが、今は『メサイア』を流してます。

 こういう宗教曲を聴いていると、やはり西洋のキリスト教文化には太刀打ちできない、恐れ入りましたという気分になります。バッハの『マタイ受難曲』を生んだだけでも、西洋キリスト教の存在意義はあったと思ってしまう。

バッハ:マタイ受難曲 ハイライツ

バッハ:マタイ受難曲 ハイライツ

ヘンデル:オラトリオ「メサイア

ヘンデル:オラトリオ「メサイア

☆ ☆ ☆ 
 節操もなくいろんな本を読んでいて、こいつは思考に持続性がないのではないかと疑われても仕方ない感じですが、この度はベギン運動関連の本を集中していくつか読みました。

ベギン運動の展開とベギンホフの形成―単身女性の西欧中世

ベギン運動の展開とベギンホフの形成―単身女性の西欧中世

 概説書などには、14世紀にベギンは教会から異端として禁止されて廃れたと書かれているので、ベルギーなどに少数ながらベギンがまだいるとは、この本で教えられるまで知りませんでした。
 
 思えば、数年前にベルギー旅行に出かけた父がベギンというのがいるという館を見てきたぞと言っていたのでした。我が父を信じるべきだったなあ。
 生半可通の悪い癖で、ベギン館は残っているだろうけどベギンがいるわけないでしょと、いや、いたんだ!と主張するのを一笑にふした親不孝を、父よお許しください〜。

ベギン運動とブラバントの霊性

ベギン運動とブラバントの霊性

 これはベギン運動そのものというよりも、ベギン運動の宗教的経験を支え貫く霊性に焦点があてられており、直接ベギンを扱った第二部も、ワニーのマリやハデウェイヒなどの重要なベギン女性の霊性が中心になっています。

 個人的にはハデウェイヒがいい感じ。

ヨーロッパ中世の宗教運動

ヨーロッパ中世の宗教運動

 
 『ヨーロッパ中世の宗教運動』第4章が「ベギン会」について。
 個人的には池上先生のベギン運動分析が一番納得したというか、啓発されました。

 人をぶん殴るのにちょうどよさげな凶器予備軍の分厚さを誇るこの本も、やっと4章まで読みました。あと、5章と6章か…。

 調子にのりベギンたちの残した文章を読んで見たいと『中世思想原典集成15 女性の神秘家』も借りてみましたが、もっと凶器になりそうなその分厚さに後ずさっております。

中世思想原典集成〈15〉女性の神秘家

中世思想原典集成〈15〉女性の神秘家

 
 女性の宗教運動で、しかも修道会の形をとらないベギンには昔から興味がありました。

 ベギンたちが、手を使った様々な労働を通して自活することの中に使徒的生活を信徒として生きる意義を見出していたこと、労働(マルタ)と観想(マリア)を社会の中で一致させて生きようとした姿勢があったことなど、非常に興味深い点が多く、私たちも学ぶべきことはたくさんあるなと感動しました。

 個人的にもっとも関心をそそられたのは、ベギンが死者に関する仕事(埋葬の世話、死者の洗浄など)を専売特許として引き受け、「死の専門家」となっていたという、池上先生の指摘です(328〜329頁)。
 この点をもっと知りたいなあ。注で挙げられている参考文献はどれもドイツ語なのが、無念。

 彼女らの仕事振りから窺われるのは、彼女ら(ベギン)が「手」の人だった、ということである。あるいは触覚の人と言い換えてもいいかもしれない。手先が器用でなければできないような、細々した仕事を彼女たちは好んでこなしたし、また貧者にも死者にも触れるそうした仕事を彼女らは引き受けた。触れずにすまそうという男性とは対極的である。この点も、彼女らの〈霊性〉の特質と大きくかかわっている。(『ヨーロッパ中世の宗教運動』329頁)

 
 触れることの大切さ。これを大事にして生きたいなあ。

 イエスも人間に触れるために、まさに受肉したのではないでしょうか。

 はるる