つけたし

 考えて見れば、『PLUTO』のウランちゃんは紅一点ですね。
 悲しむ人の感情をいたく敏感にキャッチしたり、初登場時に、猛獣たちを手なずけたりする辺り、「魔法少女」系だ。
 
 今のストーリー展開だとあまり彼女の出番はなさそうですが、どうなるかしら。


 それと、ロボットならどんな職種でも男女の区別は必要ないのではという気もするのですが、旅行会社のエージェントや政府の情報案内関係には女性型が、警察などには男性型が使われるのはどういうことなのか?
 
 未来の話なのに、日本もユーロ連邦も警察といえば、出てくるのは男ばっかりだし。ロボットの研究者も男性だけだし。女性の社会進出はどうなっているのか。

 原作がきっと男性しか出てこないのでしょうから、こんなことをここで言っても仕方ないのでしょうが。


 『PLUTO』に関する評論の中では紙屋高雪氏が書かれているものが、個人的には腑に落ちましたので、それをリンクしておきます。(紙屋研究所トップより引用しています。)

 「平和」と「記憶」の問題。なるほどな〜。(こういうのを読むと、つくづく自分には書評とか評論の能力が限りなくないということがよく分かる。このブログを読んでいる方には、言わずもがなの事実ですけどね^^;)。

浦沢直樹×手塚治虫『PLUTO』2巻

 上記から一部、下に引用します。

 浦沢が手塚に挑戦するのであれば、当然、「平和」という問題を、今日的なリアリティをもってよみがえらせるという課題に直面する。

 そのことを忌諱するなら、このリメイクは手塚への挑戦でも何でもなくなる。
 よくも悪くも、手塚は間違いなく戦後民主主義の旗手であるのだから。


 無謀な戦争を体験した戦後日本は、戦争や平和を扱う創作を数多く生み出し、その結果、自分の戦争への感情を語るにしても、あるいは戦争にたいする倫理観を語るにしても、いくつかの(あるいはもっと多くの)パターンが定まってくるようになった。
 まるで鋳型に流し込むように、そのパターンの中に自分の気持ちを入れ込めば、だれでも戦争を語れるようになった。
 それは必ずしも悪いことではなかった。特定の人だけでなく、だれもが戦争や平和にたいする感情や倫理観を日常的に表現できるようになったという点で、大いに意味のあることであった。とくに戦争体験を国民の中に遺し、「普及」していくうえでは、こうした「物語のパターン」は決定的ともいえる役割を果した。
 しかし、他方でそういう表現にたいして、多くの国民が目が肥えてくるようにもなり、そうしたパターン化された表現にふれても、「リアリティ」を心の底からは感じられなくなっているのもまた事実である。
 
(中略)

 問題は、「ねえ博士 どうしてロボットどうしうらみもないのに 戦うんでしょう!?」「ぼく……今にきっとロボットどうしが仲よくして けんかなんかしないような時代になると思いますよ きっと……」という「平和」観を、「負のイメージ」「そんなものは誰も見たくない」ものとして片付けるのではなく、今日的なリアリティをもってよみがえらせるということなのだ。

 浦沢の『PLUTO』がこの課題に果して挑戦するのかどうかは、いまのところ、定かではない。

(中略)

 ただ、ぼくが期待しているのは、「記憶」の問題である。

 2巻でロボットのうちのひとつであるヘラクレスは次のように言う。


「人間はなぜ、あんなモニュメントを建てたがるかわかるかい?

 忘れてしまうからだよ。

 記憶がどんどん薄れる前に、
 ああいうものを建てて忘れないようにする……

 ところが俺達はどうだ……

 メモリーを消去しない限り、
 記憶はいつまでも残る……

 あの戦争で見たものを、
 俺達は鮮明に覚えている……」


 ロボットと人間のちがいの一つに「記憶」をもってくる。

 「記憶」は、いま日本で戦争と平和を語るさい、外すことができないキーワードである。

 浦沢はこの作品の中で「メモリー」について執拗にとりあげ、2巻の後半でも、ゲジヒトの「記憶」について、何度も触れる。このモチーフを今後浦沢が料理するのかしないのか、まったくまだわからないが、この問題をもし軸としていくなら、手塚の「平和」観をこえる今日的なリアリティを獲得しなおす可能性があるように思う。

 こういうのを読むと、去年出版された紙屋さんの本を読みたくなるなあ。

 

オタクコミュニスト超絶マンガ評論

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