赦しを支えるもの その1

 前回の続きです。

 

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

 『アーミッシュの赦し』の著者は、私たちの行動にはたいてい理由があり、特定の状況下で何をするかを決定づける行動パターンや心理的傾向を供えており、それが集団的になると「文化」と呼ばれるものになると述べています。

 「文化」とはある集団の信念と行動のレパートリーを指している、と。

 つまり、アーミッシュの赦しは彼らの価値観のレパートリーに沿った「文化」行動なのだということです。(以上、113〜117pp)

 この本には2006年の事件以外のアーミッシュによる赦しの例がこれでもか!というほど次々と提示されています。ロバーツへの赦しが決して例外的な、逸脱行為などではないということが証明されるわけです。

 その例のなかから二つを挙げます。 

 1992年ランカスター郡で5歳のアーミッシュの子供が車にはねられてその日のうちに死亡した。

 捜査官が車の運転手をパトカーに乗せ、アルコールテストを受けさせているそのとき、スカートのすそを握りしめた幼い娘を連れた母親が近づいてきて、警官に言った。
 「この男の子のことをよろしくお願いします。
 重傷の息子のことだと思った警官は、こう答えた。
 「救急隊員と医者が最善をつくします。その後は神様しだいでしょう」
 すると母親は、後部座席の容疑者を指さし「運転手のことです。私たちは彼を赦します」と言った。(118〜119pp) 

 1957年オハイオ州アーミッシュの夫が強盗に殺さ、妻は暴行を受けた。逃亡した二人組みの強盗犯はイリノイ州で追い詰められ警察官を撃った後、投降して逮捕された。

 報道陣を困惑させたのは、アーミッシュが「逃亡した犯人への憎しみをまったく示さず」、しかも「殺された男の家族の誰も、犯人に復讐したいという気持ちをもっていない」ことだった。
 
 (中略)

 (被害者の父親)モーズは「皆がいなくなって、たった一人で死んだ息子のことを思うのは辛いよ」と嘆いた。同じ目に遭わされた親なら誰でも抱く悲しみを彼も訴えたのだろう。しかし、そのモーズが、息子を殺した張本人クリオ・ピータースを刑務所に訪問したため、部外者は驚いた。モーズはその後、ピータースに会うのはとても辛かったが、なんとか「神があなたをお赦しになりますように」と言えた、と話している。
 しかし、司法制度はそこまで寛大ではなく、迅速な審理の結果、出されたのは死刑の判決だった。すると、オハイオ州内外のアーミッシュから、ピータースへの寛大な処置を求める手紙が知事のもとに殺到した。
 
 (中略)

 アーミッシュも、犯罪には報いが伴うべきだとは考えている。彼らは、州が裁きを与えるのを妨げたのではなく、未亡人ドーラ・コブレンツは、裁判で証言もしている。しかし、彼らは自分たちのために死刑を執行してほしくなかった。モーズ・コブレンツや、コブレンツ家と親しいアーミッシュは、ピータースを哀れんでいた。……ピータースの両親が裁判のためにオハイオ州に来たときは、いくつかのアーミッシュの家族が、夫妻を食事に招いている。夫妻もまた、息子のした行為の犠牲者だ、と彼らは考えたのだ。(122〜124pp)

 アーミッシュも人間なので、もちろん加害者を赦すことに葛藤がないわけがなく、赦しを実践する苦悩の深さも詳しく述べられています。

 では、大変な苦しみを味わいながらでも、それでも加害者を赦すといい続ける彼らの赦しのルーツはどこにあるのか?

 この質問は、アーミッシュたちを困惑させました。
 

 「だって、これは基本的なキリスト教の赦しじゃないですか」
 (中略)
 「アーミッシュの赦しは、キリスト教の赦しです」と答えてから、一瞬間を置き、声を強めて「〈違う〉んですか?」(137p)

 キリスト教は赦しを強調する宗教ですし、私たちキリスト者も耳たこで赦しについて聞き、さんざん読み、語ります。しかし、本当に実践するとなると、難しい!

 では、理想を語るだけの私(たち)と実践をする彼らの間の違いとは何か?
 
 それについては、次に。

 はるる