死刑囚をめぐって

 お久し振りです。しばらく、自分のブログも見ない日々が続きました。

 胃が弱っていて、ただ今よれよれです。皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

 先日、DVD『赦し その遥かなる道』を視聴。
(韓国語原題は、「용서, 그 먼 길 끝에 당신이 있습니까」ですから、「赦し その遠い道の果てに、あなたがいるのですか」)
 
 衝撃を受けて、その日の夜はあまり眠れず、あれこれと考えてしまいました。

 

 詳細はhttp://www11.ocn.ne.jp/~grdragon/temp/forgiveness/index.htmlを参照して下さい。

 映画を見た後、勢いで『弟を殺した彼と、僕』を一気に読み、『癒しと和解への旅』も読み終わりました。

 

弟を殺した彼と、僕。

弟を殺した彼と、僕。

 「半田保険金殺人事件」で弟の明男さんを殺された原田正治氏の本です。


 

癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち

癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち

 こちらは、ドキュメンタリー映画『赦し その遥かなる道』にも登場したJourney of Hope についてのノンフィクション。 

Journey of Hope のサイトはこちら。

 http://www.journeyofhope.org/pages/index.htm
 

 DVDと二冊の本を読んてみて、赦す、罪を悔いる、償う、そういうことは一人の人間全体(魂、人格、体、何もかも)が、その人生を賭けて行うことで、当事者ではない他人が、勝手にとやかく言うことでは全くない、特に批評のようなことは言うべきことではないとひしひし感じました。
 
 他人がすべきことは、その人の側に共にいるとか、その人の話すことに耳を傾けるとか、一緒に泣くとか、そういうことしかないのでは?というのが、まず浮かんできた感想です。

 なんというか、赦しや償いが何かなんて、何も分っていない私に発言する権利があると思えません。

 以下に、本からいくつか引用します。

 僕が望んでいることは、事件前のように人を心底憎むこともなく、明るく平穏な生活に戻ることです。その望みが叶うかどうかは、長谷川君(引用者注:筆者の弟さんの殺人を計画した人物)を死刑にしてもしなくても関係ないように思いました。(中略)僕が受けているのは精神的な傷です。目に見えないものです。それを恢復する方法は、一筋縄ではいきません。(中略)

 しかし、僕は、彼(引用者注:長谷川君)と面会したことが、自分にとっての恢復への道につながる予感を感じました。この頃から僕は、自分が突き落とされた崖から這い上がる試行錯誤を始めた、と言えるのかもしれません。

 (中略)僕が求めているのは、彼をさらに突き落とすことではなく、僕が崖の上に這い上がることなのです。成功するのか否かはわかりませんが、何もしないで崖の下で一生恨みつらみを言って終えるより、崖を這い上がる第三の道を求めたいと思いました。その第三の道が僕にとっては「確定死刑囚になった加害者と面会する権利を求める」ことだったのです。(『弟を殺した彼と、僕』156〜157pp)

 「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか」と言いますが、彼ら(引用者注:被害者遺族の気持ちを考えろと言って死刑に賛成する人々)もまた考えたことはないのです。一方的に、「被害者遺族は、怒りに凝り固まって、死刑を望んでいる」と決めつけているのだと思います。僕は、彼に「被害者遺族の気持ちに同情するので、死刑に賛成する」と言ってもらうより、被害者遺族の肉声に直接耳を傾け、受け止める時間を少しでも持ってほしい、と思いました。


 単に「被害者遺族の気持ちを考えて死刑に賛成する」という声に、僕は寂しさや怖さを感じます。そのような人は、僕の様な者を、「家族を殺された彼らは、平穏に暮らす自分より気の毒でかわいそうな人」と、一段下に見ていると感じます。その上、自分のことを偽善者よろしく、「言われなくても被害者遺族の気持ちを被害者遺族の気持ちを推し量ることができる自分は、人間らしい情のある者だ」と、心のどこかで考えている気がします。被害者のことなど真剣に考えてはいないのです。(『弟を殺した彼と、僕』195〜196pp)

 ここ(↑)は、本当にドキリとさせられた箇所でした。

 「被害者遺族として彼ら(引用者注:死刑囚)に対し要求要望することは、決して死刑執行ではなく、謝罪、償いだと考えます。生きる存在があるからこそ、そこに謝罪、償う意識が生まれるのではないかと考えています。(中略)

 「接見交流の場が与えられると云うことは少なくとも、加害者が被害者に対し謝罪し、償いをする意識を増幅できる場だと思っています。」

(中略)

 死刑の執行は「加害者を殺してやったから、被害者は満足しなさい」と国から言われているように僕は感じます。しかし、それでは満足できないということを、大臣に伝えたかったのです。僕がほしいのは、被害者側の救済だからです。また、加害者の償いを受け入れる、つまり、面会をして謝罪の言葉を直接聞くことも「被害者の権利」として認められていいのではないか、ということでした。(後略)『弟を殺した彼と、僕』232〜233pp)

「被害者遺族のことを考えて死刑はあるべきだ」と思っている人が多くいると聞きますが、長谷川君の執行が大きく報道され、通や、告別式が行われたとき、誰かひとりでも僕に、「死刑になってよかったですね」と、声を掛けてくれたでしょうか。所詮、国民の大多数の死刑賛成は、他人事だから言える「賛成」なのです。第三者だから、何の痛みもなく、「被害者遺族の気持ちを考えて」などと呑気に言えるのだと思いました。僕はひとりぼっちです。

 家に帰っても、長谷川君が生きていた一昨日までと我が家は何ひとつ変わらないと思いました。加害者が死刑で殺されても、僕も母も僕の家族も、決して弟が生きていたあの頃には戻れないのです。そのことへの労りは誰からもなく、「死刑になってこれで一件落着」だと思われたとしたら、僕は本当に浮かばれません。(『弟を殺した彼と、僕』245p)

 

 無神論者の原田さんが教会に来ないかと誘われて出かけ、外国人のゲストが話すのを聞いていた時に。

 僕は、聞いている内容とまったく別のことを考えていました。考えていた、と言うと少し違う気がします。ふと、気持ちがそのように感じたとでも言いましょうか、ある思いがわき上がってきたのでした。

 「僕は、これまで人前で『長谷川君のことを決して赦していない』と話してきた。死刑は望まないけれど、『赦してもいない』と。しかし、果して僕には、彼を赦す権利があるのだろうか」

 (中略)

 この日は、「生きる、死ぬは、人間が判断する事柄ではない」
 そう、はっきり思いました。明男の死も、長谷川君の死も、人間の手にかかったものです。しかし、それはいけないことなのだ、と思いました。生死を人間が操ってはいけないと感じたのです。突き詰めていくと、赦すということは生かすこと、赦さないということは殺すことなのではないか、と思いました。そうだとしたら、「赦す、赦さない」も人間の掌中に置いてはいけない。そんな気持ちでした。

(中略)

 仏教の人も、キリスト教の人も、他の宗教の人々の中にも、宗教の教理に照らして、死刑はよくない、殺してはいけない、赦しが大切だ、と述べる人たちがいます。僕は、自分の信じる宗教の教えにあっているから、僕が「赦したい」と思うことを是とする人に、嫌悪感を持ちます。僕と同じ苦しみを味わうことなく、偉そうな高みから、悟ったように言われることが不愉快なのです。憎まないでおこうとしても憎んでしまう僕を、馬鹿にしているように思えるのです。


 「赦しなさい」と言われて、許せるものではありません。僕は、反発を感じるばかりです。
 しかし、僕が「自分に赦す権利があるのだろうか」と感じたこともまた事実です。(『弟を殺した彼と、僕』255〜256pp)

 上の箇所は私にとって、まさに圧巻の箇所でした。赦すということについて、これまでいくつか本を読んだり、説教を聞いたりしてきましたが、原田さんがこの本に書かれたこの部分が、一番私には腑に落ちました。

 それでも、私は赦しを何一つ分っていないと感じますが…。

 この本が絶版というのが、信じられません。ポプラ社は文庫化すべきと思います。

 今こそ、この本は多くの人に読まれるべき本と思います。

 
 ところで、二冊の本を合わせ読んで興味深かったのは、上に引用した原田さんが書いておられることの多くを、アメリカの被害者遺族も同様に感じ、考え、語っている事でした。


(12年の歳月を経て、娘を殺した犯人を赦したというアバ・ゲイルが、イタビュアーの坂上香さんに対して)
「息子さんを殺した犯人の死刑に立ちあったという被害者遺族に会ったんだけど、彼女はとてもがっかりしていたわ。執行が終わって帰ってきても、何も変わっていなかったというの。死刑囚が苦しんで死んだようにも見えなかったし、執行されれば気持ちも楽になるとか、家族の関係がうまくいくようになるとか、今まで彼女が期待していたことがひとつも起こらなかったっていうの。

 それで彼女に私の体験を話したの。ダグラス(引用者注:アバの娘キャスリンの殺害犯人)との交流をね。彼女はじっと黙って聞いていたわ。そして、『息子を殺した犯人と一度も話す機会がなかったことを残念に思う』って言った。ひょっとしたら彼女に何らかの希望を与えてくれたかもしれないって。 (後略)」(『癒しと和解への旅』168p)

 
 こういうものを見たり、読んだりしていると、人間を根底から救うということは、やはり人間では出来ないのではないかと、私は考えてしまいます。

 はるる