パラダイス・ナウ

 以前見逃したパレスチナ人監督による映画『パラダイス・ナウ』を観ました。


 パラダイス・ナウ


 

パラダイス・ナウ [DVD]

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 ナブルス出身の二人がテルアビブに自爆攻撃に向かう48時間の物語。

 すごく重くて、見終わってからはしばらく、口をききたくない位でした。

 監督のインタビューによるとナブルスという町自体が、「軍隊や検問所に囲まれていて、人々は大きな監獄に閉じ込められているような閉塞感を味わって」いるような所で、かつ「ほとんど空が見えず、カメラを向けるといつも壁が映り(中略)、どこにカメラを置いても、閉塞感が描けます。青い空どころか“空”自体、見えないのです」という町であるらしい。


 この出口なしの感覚をパレスチナ人の目を通して疑似体験したというのが、この映画を見た一番の収穫だったような気がします。

 あちこちの道路がイスラエル軍によって封鎖されて苛立つ気分を自分も感じ、これが毎日続いたら、それは自爆攻撃を思い詰めもするだろうと腑に落ちました。すごい閉塞感。


 攻撃に向かう二人のうちの一人が真剣に遺言をビデオカメラに向かって語る時、撮影者の横に立つ作戦立案者たちはピタパンを食べている。
 自爆攻撃をさせる側の若者を利用している感じがして、彼等がこれから攻撃に赴く者たちにかける、まるでマニュアルのような言葉が空疎に響く。
 「殉教者」とか何とか美しい言葉を連ねるが、作戦を立てて、他人を自爆攻撃に出しても自分は行かない者たちの言葉はどこか空虚でした。

 他人を爆弾を体に巻きつけて出ていくしかない処へと追い込み逃げ道を塞いで、利用する人々。

 「君が死ぬことで世界が変わる」と自爆攻撃者に向かって作戦立案者が言う言葉を聞いて、変わらないよ!と心の中で叫んでました。

 
 それに対し、自爆攻撃を断固決意した者の言葉の迫力たるや、すさまじいものがあり、圧倒されてしまいました。(映画なのに。)


 それと、攻撃を決行する者の過去が明らかになると、人はその行為の背後にそういう選択をする理由を持っているのだということを痛感。

 
 映画を見終わった後、かつて『NewsWeek』誌が自爆攻撃を行った人々のことを、彼等は死ねば天国に行けて天国で美女とたわむれることができると信じている「狂信者」だと揶揄するような書き方をしているのを読んで(英語だったから誤読していたらごめんなさい)、その侮蔑的、冷笑的な書き方に腹がたったことを思い出し、他人へのレッテル貼りやステレオタイプ化は本当に人間への冒涜だと思いました。

 
 でも、自爆攻撃で殺されたイスラエル人の遺族としては、攻撃をした者はただの殺人者でしかないのも当然であるわけで、考えれば考えるほど、どうすればいいのか。

 報復が報復を生むこの連鎖に対して、何をどうしたらいいのか、日本人の私に直接できることはないように思われます。

 せめてパレスチナ側からの視点を知る努力をして、アメリカやイスラエルの主張が正しいわけではないということを機会がある度にささやかに表明していくこと位はやれればなと思ったことでした。
 

 
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この映画を観たら、これも観たくなりました。

 

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 本もあるなあ。

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 はるる