そして「トッケビ」にはまった夏
オリンピック視聴はボイコットして、韓国ドラマの「トッケビ」全16話を視聴。
「トッケビ」についての説明はこちら。
最初は、トッケビと死神のブロマンスが面白いし、物語はよくできているので、楽しく観ていたのですが、途中から、これは表面はファンタジー恋愛ものでありながら、奥に別テーマを抱いているのではないかと勝手に深読み(?)し始めて、そのテーマを念頭に置いて観てました。
そのテーマは、二つ。一つは、記憶と謝罪の問題、もう一つは命の重さと自殺をめぐる問題です。
今回は一つ目。
このドラマの主要登場人物として、主役のトッケビとチ・ウンタクと並んで重要なのが、死神(저승사자)です。(他にもいますが、とりあえず省略)。
ドラマでは、死神というのは前世で大罪を犯した人間が、罪の記憶を消す選択を自らした上で罰として死神として働いている、という設定になっています。
死神には、自分が犯した罪の記憶もなく、自分が何者であるかというアイデンティティの象徴である自分の名前も思い出せません。記憶も名前もない存在、それが死神です。
ドラマ後半で、トッケビが受けた被害は、前世の死神によってもたらされたことが明らかになります。それまで、知らずに加害者・被害者が同居(神の計らいによって)し、友情が芽生えていたわけですが、これが明らかになったため、この友人関係は崩壊します。
私としては、この二人の間における謝罪と和解がどう進むかが、とても興味深かったのです。
そもそも、記憶と罪の関係を扱っているのでは、と思ったきっかけは、ドラマの最初の方の、死神が迎えたある男の死者に対して、あなたは地獄に行くと言う場面でした。
他の死者たちには現世の記憶を消すお茶を出すのに、その死者には出さないので、なぜか、と男から問われた死神は、「あなたは自分の罪を忘れてはならない。」「地獄で自分が犯した罪を後悔するが、この苦しみからは逃れられない…永遠に」と告げます。
自分の罪を記憶せよ、というのが、私がメッセージとして受け取ったことでした。
しかし、そのように死者に告げる死神本人も生前に大罪を犯した者だったわけで、罪の問題は死神にもついて回っているのに、にもかかわらず、死神自身は己の罪の記憶がない、という矛盾した状態にあるわけです。
そういう死神とトッケビは前世で非常に因縁があり、加害者・被害者の関係性にありました。それで、この二人の間の謝罪と和解が一つの裏テーマとしてある、と思って観たわけです。
で、私が観る所、二人の関係性は以下のように推移します。
まず、第一段階としては、死神こそが加害者だったことを知ったトッケビが怒りに燃えて死神のところにその怒りをぶつけにやってきますが、記憶を喪失している死神は、自分が何をしたのかが分かりません。そんな死神に対し、トッケビは、自分はこんなに鮮明に自分はやられたことを記憶しているのに、お前は何も覚えていないのか!と激しく怒ります。しかし、そう言われても、何をしたか、記憶の無い死神は何も言えません。
ここでは、被害者が加害者に対して、相手が自分に対してどんな加害をしたのかを教えなければならない状態になっています。
この段階では、謝罪は例えしたくてもできません。
しかしその後、死神としての能力を私的に乱用したとして、死神は懲罰を受けることになります。それは、自分の罪の記憶の返却でした。
これが第二段階で、死神は遂に自分が何をしたのかという記憶を取り戻すわけですが、そのあまりの罪の重さのため、今度は己の罪に直面することができません。その重さに打ちのめされ、再びトッケビと対峙した際に死神は、泣きながら、「自分を殺してくれ」と言います。
それに対してトッケビはお前は、死に逃げるのか、お前は殺す価値すらない、と拒絶します。死神の、いわば安易な謝罪は厳しく拒絶されてしまうわけです。
しかし、唯一人死神が記憶していました。(実は、記憶していた人間がもう一人いたことが後で分かりますが)。
死神は現世に戻っても行き場のないトッケビを受け入れるのですが、その時、第三段階が来ます。
トッケビを受け入れるにあたって、死神が最初にしたことは、自分の罪の本質を自分の言葉で表現しながら、トッケビに心から謝罪することでした。自分の罪から目をそらさずに見つめ続けた結果の謝罪は、トッケビに受け入れられ、二人は親友になります。
また、死神が愛する人と決定的な別れをした後、嘆き悲しんでいるときにトッケビが慰めにくるのですが、その時、トッケビは、死神が死に追いやった自分の一族郎党を、ずっと死神が供養し続けてくれてありがとう、とお礼を言います。
それに対して、死神は「彼ら(=被害者たち)は怒るかもしれないが、自分の罪に向き合おうと」と答えます。
私は、このせりふを聞きながら、この姿勢が和解には必要だ~!えらいぞ、死神!と一人でテレビの前で盛り上がってました。
罪を謝罪することと、その罪を記憶していることは密接に関係している。
自分の罪から逃げないで、辛くても正面から向き合い、直視することから生まれる謝罪こそが受け入れられる。
また、死神が自分が加害を与えた人々を供養し続けたように、被害者に敬意と誠意を示し続けることが和解には重要なことなんだ、ということを考えています。
昔読んだ、和解についての本を読み直してみようかな、と思いつつ、『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』を読書中。
この本で扱われている問題も、上記の問題と重なり合うところがあり、読み進めながら、もっと考えを深めていけたらな、と思ってます。
下の写真が、死神。
仕事中なので死神の制服を着用してます。帽子は必須。
ちなみに、死神は定期的にこの帽子をドライクリーニングに出してました。死神が帽子を引き取りに行ったとき、クリーニング屋さんから「すごくいい生地ですね。イタリア製ですか」と問われ、「メイドインヘブンです」と、まじめに答えていたのがおかしかった。
はるる