Hail, Mary

 雑誌TimeのCover Storyである"Hail, Mary"を読みました。
 
 アメリカにあるプロテスタントのいくつかの派で、マリアへの関心、崇敬が最近高まっているという話。この背景には、800万にも上るヒスパニック系プロテスタント人口の急増(彼らは、マリア信心をそっくり保ったままカトリックからプロテスタントに移ってくるらしい)、フェミニズム神学の影響、そしてプロテスタントの得意技である、聖書のみ!の精神で新約聖書をきっちり読むと、イエスに次いで聖書はマリアについて語っていると「発見」したこと等などの理由があるようです。更には、「神の母」というマリアの称号がイエスは神であるということを人々に思い出させる効果もあると言う人々もおり、これは要するに、キリスト教が直面している、イエスはただの知恵ある人間、教師だったとする最近の傾向と、それを支える、世俗化、過激な多元主義、そして聖書の地位低下に対抗するのに、マリアのこの称号は使えるんじゃないか、ということですね。もっとも、プロテスタントカトリックとは違うと明確に線引きしていますし、最も彼らが好むマリアへの称号は、「最初の弟子」らしいです。
 マリアをめぐって、最近アングリカンとカトリックの間も歩み寄りが見られますし、エキュメニズムの観点から行くと、これは面白い、長い目で見れば、プラスに働く動きではないかと思いました。(もっとも、この記事の最後の部分には、ちゃんとこうした動きへの反対派の言い分も載ってます。)

 本日、読んだ本は二冊。『キリシタン禁制と民衆の宗教』と『民衆宗教と国家神道』。どちらも勉強になりましたが、特に、後者は19世紀民衆の宗教的な心性という観点からも、興味深かったです。

民衆宗教と国家神道 (日本史リブレット)

民衆宗教と国家神道 (日本史リブレット)

キリシタン禁制と民衆の宗教 (日本史リブレット)

キリシタン禁制と民衆の宗教 (日本史リブレット)

 『民衆宗教…』に、寺檀制度(檀家制度ともいう)の創設によって、人々の超越者への信仰が圧殺され、民衆の現世利益の要求は、呪術的・習合的多神観の中に封じ込められた、ということがさりげなく書かれているのですが、これはどこまで研究者の間で認められている見方なのか、それが知りたいところです。(こうしたことについて、てんで素人なので。)
 こうした見方が定説になっているのか、どうしてこのように断言できるのか、そうした心性をつかむのにどのような方法論、史料を使っているのか。疑問はたくさんあります。
 この辺り、もっと勉強しないといけないなあ〜。
 
 はるる