『キリスト教史』

 C・リンドバーグの『キリスト教史』を読了。

 

キリスト教史 (コンパクト・ヒストリー)

キリスト教史 (コンパクト・ヒストリー)

 個人的には、アウグスティヌスの神学および後世への影響、敬虔主義、そして19世紀以降のプロテスタントの動向に関して、教えられるところ多し。

 敬虔主義とドイツの結びつきのくだりを読んで、やっと現在のドイツの教会と国家の結びつきの背景が分かりましたわ。


 個人的に響いた箇所のいくつかをメモ。

 アウグスティヌスによるカリタス(愛)とクピディタス(貪欲)の違いは、シモーヌ・ヴェイユが語る重力と恩寵を連想させ、刺激的でした。

 カリタスは存在そのものである神へと上昇し、クピディタスは劣った存在、したがって無へと下降する。

(中略)

 クピディタスは誤った方向へ向けられた愛であるが故に罪であり、劣った対象へ向けられた愛であり、神へよりむしろ下方の地上へと曲げられている。しかし、神は私たちの上におられるので、私たちは私たちの愛を上方の神という善へと向けるべきである。地上の善は私たちを混乱させ、私たちの愛を下方のそれらへ引っぱるのである。それ故、クピディタスは善の探求ではあるが、善であるにもかかわらず究極的な満足をもたらすことができない。

 (中略)

 ただ神のみが至高善、不変の善であるから、ただ神のみが人間に完全な達成をもたらすことができる。愛が達成を求めてより低い善へ向けられると、それは偶像崇拝的になる。被造物を創造主と取り違えるからである。滅びるべき善を愛することによって、罪は喪失と死への逸脱または堕落となるのである。(76〜77pp)


 重要な敬虔主義者の一人、シュペーナー。

 人々は説教と司牧活動の「客体」ではなく、聖書全体を瞑想しつつ専有することにより、キリスト教の実践に専念する「主体」となる。(201p)


 1848年、『共産党宣言』発行の数ヵ月後、ヨーハン・ヒンリヒ・ヴィールヘン牧師は『プロテスタント宣言』を発表。

 この長い(二時間もの)力作というべき演説において、ヴィーヘルンは「信仰と同様に、愛が教会の不可欠なしるしである」と宣言した。もし教会が工業化された都市において神の愛を受肉させさえすれば、教会の未来は豊かである。(224p) 

 ま、それが出来ないから苦労しているのだが。

 シュライエルマッハーの有名な言葉。もっとも、私は知りませんでした(~_~;)。

 信仰とは「絶対的に依存している、あるいは同じことであるが、神と関わっているという意識(感情)」  (236p)

 こういう歴史を読むと、今、私たちがキリスト教とはこういうものだと、自明のことと思い簡単に考えていることが、長い長い2000年にわたる、キリストを信じる数知れない人々の信仰、祈り、黙想、思索、そして実践を通して手渡されているものなのだということが迫ってきます。


☆ ☆ ☆

 あと、『知られていなかったキリスト教』も読みました。

 これは、東方正教会の歴史。正教会キリスト教史をこう見ているのかと勉強になり、同時にその苦難に満ちた、西ヨーロッパの教会がたどったのとは全く異なる歴史に粛然となりました。

 やはり、カトリックプロテスタント以外の教会についても、ちゃんと目を配っていないとダメだなと思った次第。

 

知られていなかったキリスト教―正教の歴史と信仰

知られていなかったキリスト教―正教の歴史と信仰


 で、東方諸教会に属するエチオピア教会についての本も覗きました。読みかけです。

 

エチオピアのキリスト教―思索の旅

エチオピアのキリスト教―思索の旅

 これは半分、紀行文という感じですが。

 エチオピアキリスト教についてはユダヤ教の影響をかなり受けていることと、単性論だということ以外知識ゼロなので、すごく興味深いです。聖体祭儀のとき、踊り専門の人たちが踊るとかね。

 キリスト教も奥深いなあ。

 はるる