ホテル・ルワンダ

 今日、『ホテル・ルワンダ』を観ました。
 白人たちが大雨の中、ルワンダ人を残して去っていくシーンは強烈でした。やって来たフランス軍が白人だけ保護するために来たという衝撃。白人たちがバスに乗って去っていき、それをじっと見つめるルワンダ人(ツチ)たちの眼の衝撃。ルワンダが世界から見捨てられた瞬間の絶望がもろに伝わって、今もそのシーンが頭にこびりついています。 
 
 1994年、ルワンダ全土でフツによるツチ虐殺が進行していたとき、私はそれに殆ど関心を払っていませんでした。国際ニュースの一つに過ぎなかった。何がどうなっているのか、よく分からなかったというのが、正直なところ。
 要するに私は、まさに映画の中でテレビカメラマンのジャックが言ったような反応、つまり虐殺の映像をニュース番組で観て「あら、怖い」と言いながら夕食を食べ続けただけの反応をした人間です。
 ところが、そんな人間が、今、2006年に映画になったものを見て、心を動かされている。エンターテイメントになったものを観て、感動している。迫真の演技であっても、演技でしかないものに、殺されても、真に殺されてはいない映像に涙している。これは、何なのか。
 私は、消費している。消費してはいけないものを消費している。人の真実の苦しみを、人間の暗黒の部分の表出を、娯楽として、自分の欲望に奉仕するものとして消費している。どこにもつながっていかない形で自分の中だけを満たす安っぽい感動を消費している。静かに見つめ続けなければならないものを、喰い散らかしている。
 今、そんな思いを抱いています。
 
 『ホテル・ルワンダ』のパンフレットを買って、最後のページに掲載されていた映画評の中の一つは、私にはとてつもなく恐ろしいものに感じられました。

 この映画のカタルシスに酔い、
 良心の呵責を覚え、
 続編『ホテル スーダン』の公開を待て

 酔う。自分がいい気分になる。主人公のポールは自分の家族とホテルに逃げ込んだ1200人以上の人びとを守り抜き、出国できたのを観て。
 良心の呵責すら、軽くもてあそばれる消費物と化している。呵責を覚えて、義務を果たしたので、次の瞬間には、自分の感動のための新たな獲物を待っている。良心の呵責を地に堕としている。
 そして、スーダン。『ホテル スーダン』の公開を待て…。
 スーダンで今、起こっていることを、人が必死で生きようとしていることを、人の死を、娯楽の種にしようとすることの気味悪さ。
 なぜ、今、スーダンのために動かないのか。現在は見捨てておいて、何年もたってから、自分に感動を味あわせてくれる美談があったら、酔ってカタルシスを得るためにその映画を観ようというのは、どういうことなのか。自分の欲望のためになぜ、人の不幸を消費しようとするのか。私たちの社会は人間としてとても大切な部分において堕落しているのではないか。

 すみません、これは、八つ当たりです。私の中に、この映画評と同じものがある。スーダンのことなんて気にも留めてません。だから、不快に感じてブログで文句を言っています。自分の胸に納めておけなくて、ブログの形でもいいから人に言わないと収まらなくて、書いてます。
http://www.hotelrwanda.jp

 この映画は2004年に出来ましたが、その前年、私はルワンダについて一冊の本を読みました。フィリップ・ゴーレイヴッチの We wish to inform you that tomorrow we will be killed with our familiesという、ルワンダの虐殺について扱ったノンフィクションです。題名は、実際にあるツチの牧師がフツの牧師仲間に殺される前日に送った手紙というかメモから採ってあったと思います。書いたメモの文そのまんまだったはず。

We Wish to Inform You That Tomorrow We Will Be Killed With Our Families: Stories from Rwanda (Bestselling Backlist)

We Wish to Inform You That Tomorrow We Will Be Killed With Our Families: Stories from Rwanda (Bestselling Backlist)

 日本語版(邦題『ジェノサイドの丘』)もあって、そちらも読みました。(英語だと、どうしても読了後の気分が、40ワットの電球で照らされた八畳間にいる感じになるんですね。隅々まで余すところなく書いてあること、ニュアンスまで全て分かったというのに程遠いから。其の点、日本語で読むと、煌々と明るい蛍光灯で部屋の隅々までばっちりって気になります。ま、私の英語力の問題なんですけどね。)

ジェノサイドの丘〈上〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

ジェノサイドの丘〈上〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

ジェノサイドの丘〈下〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

ジェノサイドの丘〈下〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

 これ、上巻の帯の惹句が「1994年、アフリカの真ん中で100万人が殺された。だが、世界の人びとは、少しも気にしなかった」なんですよね…。

 この本はすごいと思う。内容も、文体も、何もかも。感傷など一片も入らず、冷静に、しかし冷たいといったこともなく、虐殺や国際社会の態度について、また、虐殺後のルワンダの状況について冷徹に描いています。驚異。

 それにしても、どうしてこんなことになってしまったのか。昔々、『ルワンダ中央銀行総裁日記』を読んだ時の希望はどこへ?ハビャリマナが1973年にクーデターを起す前の時代を記録しているこの本の中では、ルワンダは小国でも、国民のことを考えているカイバンダ大統領がおり、明るい未来があると思われたのに。あれは、まやかしだったのか?この頃、既に第一回目のツチ虐殺が起こっていたわけだし。うーん。

ルワンダ中央銀行総裁日記 (中公新書 290)

ルワンダ中央銀行総裁日記 (中公新書 290)

 でも、この本は読んでいて気持ちのいい本だった前向きの記憶があるんですけど。
 話はずれますが、中央銀行総裁の服部さんが行った通貨切り下げのこととか、結局理解できなかった気がしますね。立花隆さんが、この本を読んで国家経済の仕組みがよく分かったということを何かに書いていて、それを読んだ私は、ひたすら、うーむと唸るしかなかったのでありました。そうですか、私は、分かりませんでした…。

 あ、そうそう、『ジェノサイドの丘』にも書かれていましたし、『ホテル・ルワンダ』にもちらりと示されていましたが、フランスはこの虐殺を(いわば)黙認・承認していたんですよね。フランスが介入してれば、事態は変わったのでは?(映画で見る限りは。)フランスとアフリカの裏の関係も一度、ちゃんと把握しとかないと。
 というわけで、今年読む本として『フランサフリック』がしっかりと私の頭の中にインプットされております。
 

フランサフリック―アフリカを食いものにするフランス

フランサフリック―アフリカを食いものにするフランス

 
 これだけ書いたので、気が落ち着いたわ。やれやれ。これで心安らかに眠れます。では。

 はるる