生きる喜び

 ダ・ヴィンチ村じゃなくてヴィンチ村だよな〜と思いつつ、はや一週間。あれよあれよと時は過ぎていきます。(本日、「ヴィンチ村」に直しました。)
 魂に真水を!と叫んで読んだのは、今はまっている小沼丹と彼の友人ということで手にとった庄野潤三でした。
『懐中時計』(小沼)と『インド綿の服』(庄野)。

懐中時計 (講談社文芸文庫)

懐中時計 (講談社文芸文庫)

インド綿の服 (講談社文芸文庫)

インド綿の服 (講談社文芸文庫)

 小沼は今続いて『埴輪の馬』を読んでいるところですが、なんだか須賀敦子を連想してしまいます。
 死が日常の中にすっと影を落とす、その落とし方や、死んだ者の追憶の仕方などがなんだか似ているような気がして。
 それにしても、いい作家だなあ。小沼丹。今までこの人を知らずに生きていたなんて。自分に文学は分らないから、とあまり文芸書を読まなかった報いですね。
 最近は、少し昔の小説や随筆が読みたいという気持ちが高まっていて、小沼つながりで、井伏鱒二を読もうとか、前からいつか読もうと思っていた吉田健一をこの際だからとか、いろいろ心が動いております。
 
埴輪の馬

埴輪の馬

 『インド綿の服』は、生きる喜び、幸福というものを静かな声で品良く語っているような作品という印象。
 庄野潤三の長女、「足柄金子」こと夏子からの手紙の紹介とそれに対する注釈という形でこの短編集は進むのですが、この夏子さんがいい!すっかり私は彼女のファンです。夏子さんがまた出てくる『ピアノの音』もしっかり図書館より借り出しました。(とはいえ、結局は庄野の文章がいいからこそ、こんなに気持ちよく読めるわけで、庄野潤三にすっかり感心してしまった私です。)
 

ピアノの音 (講談社文芸文庫)

ピアノの音 (講談社文芸文庫)

 三人(途中から四人!)の男の子の母親でもある、足柄山に家族で住む夏子さんが、生田に住む両親に向けて書く手紙は、生きる喜びに満ちていて、読んでいると、そうだ、こんな風に喜んで生きていいんだと気持ちが爽やかになりましたし、親子の間でこんな風に愛情表現していいんだという驚きも感じました。
 我が家は愛情はあるのに、それを外に表現するのが下手という日本にありがちな(?)家庭で、子供の快挙を誇らしく思っているのに、それを表明するのが照れくさくて、かえってそれをくさしたり、高い要求をクリアーした子供に対して、誉めることなくさらに高い要求を出すことで、子への信頼と愛情を示したりということが日常茶飯事になっていました。
 喜びを素直に率直に表現することは、なんとなく知的でない恥ずかしいことという雰囲気があり、否定的な空気で満ちていたなと今振り返るとよく分かりますが、そこにどっぷり浸かっていた若き頃は、世の中みんなそうなのだと思っていました。
 しかし、『インド綿の服』みたいな家族もいるんですねー。世間は広い。
 父親の誕生日に夏子さんが送るお祝いの手紙なんて、こんな調子のをうちの父親に出したら、仕事のし過ぎで頭がおかしくなったのではないかと電話がかかってくるでありましょう。

生田の丘の親分さん江
 
 お誕生日を心からお祝い申し上げやす。
 今年の誕生日は格別の嬉しさでやして、親分さんがていへんな山を乗り越えられたからには、こりゃもうお上さんともども達者で長生きされることはまちげえねえと一同の者大喜びしておりやす。お祝いのステッキなんぞついて歩かず、かついで歩かれるんではねえかと申す者もおりやして、何はともあれまことにうれしい限りでございやす。
 寒さもいまちっとの辛抱でございやすので、大事に大事に養生しておくんなせえまし。祝いのふみが遅れやして申しわけござんせん。
 金時のお夏より    

 『インド綿の服』を読んで、辻邦生水村美苗との往復書簡集の中で、

 日本の風土に欠けていたのは何なのでしょうか。一言でいえば「幸福」の観念―無償の喜びの感覚でしょう。あるいは「生きる」という単純なことに向き合う無垢な姿勢といっていいかもしれません。幸福とは過ぎ去るものであり、幸福であるためには、たえず幸福であるように生きなければなりません。所有物がなくなるという意味で幸福は過ぎ去るのではなく、幸福とはもともと生きることによって私たちが作ってゆくものなのです。生きることを喜ぶ気持ちがなければ幸福も何もありません。

と述べていたのを思い出しました。

 私も、辛気臭く後ろ向きの姿勢でなく、生きる喜びを体現しつつ生きていきたいもよの、と思っております。今日はイエスのみ心の日でもありますし。
 イエス様だって人間にこれを生きて欲しいと願って「福音」を告げられたはず。

 ところで、なんだかこの幸福の感覚の有無と日本サッカーの雰囲気、深〜いところで関係している気がするんですが…。
 
はるる