メモとして:村上春樹と庄野潤三

 毎日新聞夕刊2009年9月30日と10月1日に村上春樹氏へのインタビューが掲載されていたことを知り、読んでみました。

 その一部を自分のためのメモ代わりとして、ここに(とりあえず)コピーアンドペーストしておきます。

 以下は、10月1日掲載の「『1Q84】をめぐる冒険」村上春樹氏インタイビュー(下)」より抜粋。

☆物語に置き換えて

 ドメスティックバイオレンス(DV)や家族の崩壊など、『1Q84』の背景には、現代社会の問題が影を落としている。しかし、村上さんは「今、社会がどういう問題を抱えているか、リアルには分からない」と語った。「僕はもう60歳だし、机に向かってただ文章を書いているだけです。若い人と話す機会もないし、社会との接触はだんだん希薄になっています。だから、僕としては自分自身を、あるいは自分の周りのことを深く考えていくしかありません。自分の周りの10メートル、20メートル以内のことを一生懸命考えれば、世界のことに通じていけるのではないかと思っています」



 「なぜかと言えば、今の若い人が直面している問題は、もちろん表層的、現象的には以前とは違うかもしれないけれども、本質はそんなには変わらないからです。(『1Q84』の主人公である)青豆と天吾は一種の『孤児』ですが、その孤児性は僕の時代でも今の時代でも変わりない。もっと言えば、19世紀のディケンズの時代だって変わりありません。今、『派遣切り』について社会的に疎外された孤独感が問題になりますが、それは産業革命の時にもあったことです。逆に言えば、今僕らは新しい産業革命の中にいて、僕ら自身のディケンズを求めているとも言えます」


 とはいえ、村上作品の読者は、今まさに目前にある問題が描かれていると感じる。「もしそういうことが言えるとしたら、僕が自分の底の方まで下りていって言葉を見つけようとするから、現象的にではなくて、深いところで通じ合うんじゃないでしょうか。たとえば僕らの世代は、いいか悪いかは別として、理想主義というものを強い、鮮やかな形で持つことができた世代だし、その記憶、感覚を伝えることには意味があると思う。ただ、それは、物語という形に置き換えて伝えなくてはならない。それをただ現象的にやっちゃうと、『全共闘のころはみんな燃えていた』みたいなうわべのお話になってしまう。物語に置き換えて、底の部分から立ち上げていくからこそ力を持ち、メッセージとしても伝わるのではないかと思っているんです」【大井浩一】


 以下は「村上春樹氏:「1Q84」を語る 単独インタビュー(2)個人を二重に圧殺」の全文。

−−舞台の80年代は、大学紛争などで揺れた60〜70年代や、冷戦構造が崩壊した90年代に比べ、穏やかにも見える。全共闘世代の一人として「政治の季節」を経てきた作家は、なぜこの時期に注目したのか。


 「僕らの世代の精神史が大前提にあります。カウンターカルチャーや革命、マルクシズムが60年代後半から70年代初めに盛り上がって、それがつぶされ、分裂していきます。連合赤軍のようにより先鋭的な、暴力的な方向と、コミューン的な志向とに。そして連合赤軍事件で革命ムーブメントがつぶされた後は、エコロジーニューエイジへ行くわけです。連合赤軍に行くべくして行ったと同じ意味合いで、オウム的なるものも生まれるべくして生まれたという認識があります。オウムそのものを描きたかったのではなく、われわれが今いる世界の中に、『箱の中の箱』のような、もう一つの違う現実を入れ込んだオウムの世界を、小説の中に描きたかった」



 −−『1Q84』では、人々はいつの間にか「1Q84年」の世界へ移っていく。そこには連合赤軍を思わせる「あけぼの」、オウムを思わせる「さきがけ」といった集団が登場する。



 「偶然の一致ですが、オウムが最初に道場を開いたのは84年です。60年代後半の理想主義がつぶされた後の80年代は、オイルショックバブル崩壊の間に挟まれた時代であり、連合赤軍事件とオウムの間に挟まれた時代。非常に象徴的だと思う。そこには60年代後半にあった力が、マグマのように地下にあって、やがてはバブルという形になって出てくる。バブルは、はじけることによって結果的に戦後体制を壊してしまう。そうした破綻(はたん)へ向けて着々と布石がなされていたのが80年代です。理想主義がつぶされた後に、何を精神的な支柱にすべきかが分からなくなった。今もある混沌(こんとん)はその結果なんですよ」



 −−95年の地下鉄サリン事件の被害者らに取材し、『アンダーグラウンド』などのノンフィクションも書いた。今年2月のエルサレム賞授賞式での講演では、個人の魂と対立する「システム」について語った。



 「個人とシステムの対立、相克は、僕にとって常に最も重要なテーマです。システムはなくてはならないものだけど、人間を多くの面で非人間化していく。サリン事件で殺されたり傷を負わされたりした人も、オウムというシステムが個人を傷つけているわけです。同時に、実行犯たちもオウムというシステムの中で圧殺されている。そういう二重の圧殺の構造がとても怖いと思う。自分がどこまで自由であるかというのは、いつも考えていなくてはならないことです。


 以下は「村上春樹氏:1Q84を語る 単独インタビュー(3止)物語の善き力を」より抜粋したもの。

−−宗教も革命思想も、「システムの悪」を発動し得るという面は共通する。



 「今の社会では非寛容性、例えば宗教的な原理主義や、旧ユーゴスラビアのようなリージョナリズム(地域主義)が問題になっています。昔は共産主義対資本主義とか、植民地主義対反植民地主義といった大きな枠組みでの対立だったのが、だんだんリージョナルなもの、分派的なものになって、それが全体を見通すことが困難な混沌とした状態を生み出しています」

 
(中略)


 −−とはいえ、善悪や価値観の対立を、単に相対化する姿勢が示されているのではない。

 「僕が本当に描きたいのは、物語の持つ善き力です。オウムのように閉じられた狭いサークルの中で人々を呪縛するのは、物語の悪しき力です。それは人々を引き込み、間違った方向に導いてしまう。小説家がやろうとしているのは、もっと広い意味での物語を人々に提供し、その中で精神的な揺さぶりをかけることです。何が間違いなのかを示すことです。僕はそうした物語の善き力を信じているし、僕が長い小説を書きたいのは物語の環(わ)を大きくし、少しでも多くの人に働きかけたいからです。はっきり言えば、原理主義リージョナリズムに対抗できるだけの物語を書かなければいけないと思います。それにはまず『リトル・ピープルとは何か』を見定めなくてはならない。それが僕のやっている作業です」

 
 以下は、毎日新聞夕刊2009年10月1日に掲載された、富岡幸一郎氏の手になる庄野潤三さん(この方には「さん」がふさわしい感じ)の追悼文全文です。

 庄野潤三氏を悼む:その比類なき散文世界=富岡幸一郎


 庄野潤三氏の訃報(ふほう)に接して、本棚にあった晩年の作品『ワシントンのうた』をあらためて手に取った。雑誌『文学界』に二〇〇六年一月から連載され、〇七年四月に単行本として刊行されている。


 作家の幼年時代から書き起こされ、昭和三十年『プールサイド小景』で芥川賞を受賞し、代表作となった『静物』を書く半生が自伝風に辿(たど)られているが、初読のときの強い印象を想起した。書評の依頼があったので、どんなふうに紹介すべきかと構えて読み始めたのだが、数頁(ページ)もいかないうちに私は驚愕(きょうがく)する他はなかったからである。


 《私は、大正十年二月九日に大阪の南郊の帝塚山で、父貞一、母春慧の三男として生れた。上に兄が二人と姉が一人いた。私の下に四郎という男の子がいたが、残念なことに幼くして二歳で亡くなった。あとでその下に妹が一人と弟が一人生れた。六人兄弟のまん中で、のんびり育ったらしい》


 どこにでもある文章、誰が書いても同じような坦々(たんたん)とした記述。随筆といっても何か洒落(しゃれ)た修辞がちりばめられているわけでもない。小学校の頃(ころ)の回想で、とんぼとりに熱中し、学校から帰ると「夕方暗くなるころまで、とんぼとりに夢中になっていた時期がある」と書いている。しかし次の一行、「始まりは何だったのだろう? 庭のプラタナスの枝に張ったクモの巣に、或(あ)る日一匹のとんぼがかかっているのを見つけて、助けてやった」。この一行には、庄野潤三という作家以外の誰も書けない驚くべき<世界>がある。状態はクモの巣にひっかかっている「一匹のとんぼ」に過ぎない。


 だが、この「とんぼ」は庄野氏の筆にかかると、小さな生命の輝きとあわれさを帯び、少年の熱い思いとの交流を開始し、はるかな時空をこえて読者の前にしっかりと「生きて在るもの」として出現し始めるのだ。言葉はそこで何かを差し示しているのではなく、その「生き物」自体と化す。


 詩人は、記号であり表象である以上のものを言葉に賭(か)けようとして、時に奇跡のように言葉そのものを魔術的に<存在>そのものへと変容してみせる。庄野氏はその青春期に日本浪曼派の代表的詩人である伊東静雄と出会い、決定的な影響を受ける。


 しかし、庄野氏が選んだのは詩ではなく小説という散文であった。しかもその作風は出発点からして、ロマン派的な美文ではなく、また日本の伝統的な私小説のリアリズムとも全く異なる文体(スタイル)によって貫かれていた。それは詩人が渇望する言葉の物象化を、散文という領域で実現化してみせる「天籟(てんらい)の散文」とも呼びたいものだ。言葉が描く対象そのものが、現実よりもリアルに、そこに「在る」のである。


 庄野潤三文学史においては、吉行淳之介安岡章太郎小島信夫らとともに「第三の新人」に位置づけられている。戦後文学派の作家たちが野間宏に代表される「全体小説」、つまり戦争や革命、社会的な思想と人間の全体を描こうとしたのにたいして、六○年代以降のむしろ日常性の風景とその内部に潜む危機を描いた文学世代であった。


 『プールサイド小景』は失職した夫が勤めに行くふりをして家を出て行く話であり、『夕べの雲』では家庭を守護する父親の日常と不安を描いている。それは一見素朴なホームドラマのようでありながら、その背後に人間の生の根源的な深みを垣間(かいま)見せている。しかもそれは決して観念的に語られるのではなく、夕ぐれの波立たないプールの水面や眠り続けている母親や、台所の天窓にへばりついている守宮(やもり)などの静かな日常の光景、その光景の一回性のうちに表出されているのだ。


 薄いガラス板の上に楼閣のように立っているわれわれの家庭と社会、そしてこの世界。庄野文学はこの移ろい消え去り忘却されてゆく存在と事物を、強健でしなやかな散文によって描き出す。それは小説というジャンルの、その言葉の力の奥深さを比類ないかたちで示している。(とみおか・こういちろう=文芸評論家)

      ◆

 作家、庄野潤三氏は9月21日死去、88歳。

 中日新聞に掲載された三浦朱門氏による庄野潤三追悼の文章は、個人的にピンとこず今一つ不満が残りましたので、これを読んで嬉しかったです。


 ただいま庄野潤三追悼モードに入っているため、昨夜、台風で大荒れの天気を感じつつ、少し『夕べの雲』を読み返しました。

 実はまだ、「プールサイド小景」や「静物」を読んでいないので、これから読もうと思っています。

 私が初めて読んだ庄野作品は『インド綿の服』でそれから遡って『夕べの雲』や『絵合わせ』へ、そこから降って『うさぎのミミリー』や『けい子ちゃんのゆかた』の一群へと向かったため、未だ初期作品を読んでおりません。遅れてきた読者なのでありますね。

 ぼつぼつ読もうと思っています。


 

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

 

夕べの雲 (講談社文芸文庫)

夕べの雲 (講談社文芸文庫)


 そういえば、村上春樹庄野潤三の「静物」を取り上げて高く評価しているらしいですね。←読んでない私(~_~;)。

 立ち読みでもいいので、読んでみるつもり。


 

若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)

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