季節外れのヴァカンス

 過労でしばらく伊豆の方に出かけ静養しておりました。
 昨年一年間、働き詰めという感じでしたので、今頃、時期外れのヴァカンスに出かけた気分。

 おかげさまで、疲労から回復してまいりました。
 体もさることながら心が元気を取り戻したような気がします。

 休んでいる間、小説を何冊か読みました。
 往復の新幹線の中では小沼丹の『銀色の鈴』を読み、宿泊先では井伏鱒二の『黒い雨』を読み、その後どうせ伊豆にいるからと、井上靖の自伝的小説三部作の『しろばんば』『夏草冬濤』『北の海』を読了しました。
 読み終えたことろでちょうど時間となりまして、本日から仕事再開です。

 

銀色の鈴 (講談社文芸文庫)

銀色の鈴 (講談社文芸文庫)

 疎開生活を題材とした「古い編上靴」、戦争に行って帰ってこなかった友人、伊東を描いた「昔の仲間」が、今回特に心に沁みました。

 

黒い雨 (新潮文庫)

黒い雨 (新潮文庫)

 
 昔、映画で見たことはありましたが、実際に本を読んだことはなかったもの。
 この際なので、読んでしまえと手に取り、夢中で読みました。

 

しろばんば (新潮文庫)

しろばんば (新潮文庫)

 

夏草冬濤 (上) (新潮文庫)

夏草冬濤 (上) (新潮文庫)

 

夏草冬濤 (下) (新潮文庫)

夏草冬濤 (下) (新潮文庫)

 

北の海(上) (新潮文庫)

北の海(上) (新潮文庫)

 

北の海(下) (新潮文庫)

北の海(下) (新潮文庫)

 
 三部作を続けて読むと、やはり最も秀逸なのは『しろばんば』と思われます。

 が、『夏草冬濤』の金枝、『北の海』の蓮実といった脇役も魅力的でした。

 それにしても、昔の10代ってこういう風だったのかと瞠目したのは、『夏草冬濤』で歌うという場合、それは石川啄木をはじめとする短歌を朗誦することだということを示したシーン。

 浜辺を歩きつつ、金枝君や木部君たちが次々と短歌をそらで歌い上げていくのに、ちょっとびっくり。
 また、自分で歌を詠み(それもなかなか秀歌…のような気がする)、それを歌い上げていく木部君は印象深かった。

 それと、かつての日本語の素養とはこういうものだったのか…と感じさせられたのが、『北の海』の最後の方で、宇田先生の口述筆記の形で手紙を書く主人公が、「荏苒日を空しくし…」という個所ですらすらとその漢字を書き、意味を問われて答える場面でした。

 なんのかんの言っても、まだまだ戦前は漢文や漢語が日本語の背骨としてしっかりとあったのだ、と感じました。それは、単にこういうエピソードの部分で感じただけではなく、井上靖小沼丹井伏鱒二といった戦前に生まれて教育を受けた人々が書いている文章自体からもそれを感じ取りました。

 今回読んだ小説はどれも、骨太でがっしりとした漢語が軟な日本語を支えている、あるいは日本語の底流に漢文があると感じさせられる文章で書かれている。
 そんな印象を強く受けました。

 今回、小説を読むと、心に栄養が行き渡り、乾いた大地のようだった心に瑞々しさが甦るようで、やはり文学を時々読まないと人間駄目だなあと、認識を新たにした次第。
 
 それも、今の文学よりも、少し古い時代の文章を読みたい、漢文が背後に潜んでいる文章を読みたいと思っています。

 それにしても、大学生のころ、一時期井上靖の読んでいたことがありますが、今回三部作を読みつつ、この人の文章こんなに上手かったっけ?と感心しました。

 昔は『敦煌』とか『風濤』とか『天平の甍』とか、井上靖作品はもっぱら歴史小説を読んでましたっけ。

 

敦煌 (新潮文庫)

敦煌 (新潮文庫)

 

風濤 (新潮文庫)

風濤 (新潮文庫)

 

天平の甍 (新潮文庫)

天平の甍 (新潮文庫)

 はるる