読書三昧
集中して『日本キリスト教復活史』に取り組み、昨日読み上げました。
やれやれ。
19世紀フランスのキリスト教の臭みをたっぷり感じながらの読書でした。
リジューの聖テレーズの自伝などにもちょっと感じられる独特の「あく」と言いましょうか。
しかし、やはりこの本は基礎文献の一つですから、いろいろと教えられることも多く、感銘深く読み終えました。
今日から『ヨーロッパ文明批判序説』に取り掛かりましたが、これは刺激的な良書ですね。
わくわくしながら読んでいます。
- 作者: 工藤庸子
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2003/05
- メディア: 単行本
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それと、先日読み終えた本で感銘を受けたのは、『平和は「退屈」ですか』です。
- 作者: 下嶋哲朗
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/06/20
- メディア: 単行本
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「平和学習」が正解(「平和は大事だ」「戦争はいけない」)が最初から決められているがゆえに「退屈」なものと化し、必死で伝えようとする語り部たちの言葉が受身の若者の心に届かないという状況から、いかに一人一人の若者(高校生、大学生)が自分の頭で考え、自分の心で感じた言葉で平和と戦争を語るようになっていくかを追ったドキュメント。
「戦争はいけない、というのは誰でも言う。でも自分で考えて言うのだろうか。自分で考え、行動し、自分で探して自分自身の回答を出すこと。」(31頁)
このことは「今の若者」だけの問題ではなくて、私たち一人一人がしないといけない作業だなーと読んでいる間中、考え続けていました。
日本に比べて立派と称えられることの多いドイツで、若者がネオナチに走る。結局、知識を教えて「頭」の理解にとどまり、心に行かなかった弊害が出た。つまり、歴史教育は日本においても、ドイツにおいても失敗している、と言える。
そんなことがこの本に書いてあったと記憶していますが、根本的には、多分、どこの国も平和教育について、そんなにうまくいっていないのではないでしょうか。
アメリカのように戦争に勝った側は、第二次大戦は「よい戦争」だったという認識を持っているわけで、そこから出てくる平和や戦争に対する考え方は敗戦国とは異なってくるし、どうしても勝者、強者の論理になるのではないかなという気がします。
そういえば、ヒロシマでは戦争が絶対悪とされているのに対し、アメリカにあるホロコースト記念博物館では絶対悪(殺人者・破壊者)に対しては立ち上がらねばならない(戦争もあり)と、第二次大戦の異なる経験から異なる結論が出ているということを藤原帰一氏の本から教えられたなあと今、思い出しました。(この考え方の延長線上にイラク攻撃の論理もあるといえるかも。)
戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在 (講談社現代新書)
- 作者: 藤原帰一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/02/20
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ヴェイユがナポレオンを崇拝するフランスはヒトラーをリーダーにしたドイツと煎じ詰めれば同じ穴の狢で、フランスはドイツを批判できない、どちらも力を崇拝している、という趣旨のことを書いていたと思いますが、平和とか戦争を語るとき、その奥の奥まで見ていかないと、正論を語って終わりになるように思います。
自分の中にある、自分が今享受している豊かで便利な生活を守りたい、遠い中東の人々が何人死んでも自分には関係ない、強いヒーローを崇拝してついていきたいといった気持ちの根っこにあるもの。いわゆるキリスト教が「罪」(sin)と呼んでいるもの。
そこまで到達しないとだめなのではないか。
最近、強くそう思うようになりました。
とにかく、自分で考えて、行動して、自分の言葉で自分自身の回答を言えるようになりたいと思います。(うわ、なんか小学生の作文の終わりみたいになってしまった。)
あと、ゆっくり読んでいるのは『エロスと神と収容所』です。
- 作者: エティヒレスム,大社淑子
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1986/02
- メディア: 単行本
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読んでいると、自然にエディット・シュタインが連想されてきます。まだ、はじめの方なので、最後まで読み終えたとき、どのような感想になりますか。
はるる
追記:エティについて、重要なことを書き漏らしていたので、付け足します。
彼女は1943年、アウシュビッツで殺されました。
アンネと同様オランダ国籍だったエティは、アムステルダムで最初の大規模なユダヤ人狩りが行われた際、彼女は志願してウェステルボルク収容所に送られました。ユダヤ人の運命から逃げ出したくないというのが理由だったとエティの日記の編集者は、その序で書いています。1943年9月7日(この追記を書いている今日)、エティは家族と共にアウシュビッツに送られ、そこで死にました。
強制移送列車の窓から彼女が投げ、後で農夫が発見して投函した葉書には「私たちは歌いながら収容所を離れました」と書かれていた、ということも序に書いてありました。