「A」を見てその後
「A」のおかげで、昨夜はいろんなことを考えてしまい、頭が休まっていない感じです。新幹線の中で寝よう。(今日また東京に行かねばならぬ。)
「A」の中でサリン事件の後、まだオウムに留まり続ける信者に対して、オウムが行ったことに対してどう謝罪するのか、一連の事件を引き起こしたことを認めるのかといった問いかけがありました(これは、「A2」にも出てくる問いだと思います)。
問いかけられた荒木副部長(28歳なんだよね、「A」撮影時。私とほぼ同年代なので、思い入れちゃった)は、苦悩し煩悶して、絶句してしまう。いつもこの人は言葉を必死で探して、挙句の果てに絶句してしまう。
その姿を思い出していて、ふと私は、戦後生まれの私たちは日本の戦争責任をどう考えるのか、当事者でもない私たちが謝罪することに意味があるのかという問いにぶつかって、すっきりと答えを出せなくてのた打ち回っていた自分のことを思い出しました。(この問いは、私にとって今も解決したとは言い難い。)
オウムには自分の意思で入るの対し、日本人には気がつけば生まれていたわけですから、根本的に違うといえば違うのですが、でもなんだか構造が似てるなーと思ってしまいました。
日本人であるということと日本という国家が過去に行ったことの間の関係性と、オウム信者であり続けることを選択した信者とオウムが過去に行った凶悪犯罪の間の関係性には、なにかつながるものがあるように感じられて…、うーむ。
荒木副部長は一連の事件には当人としては何ら関与していない。ホーリーネームももらっていない人ですからホントに下っ端だったわけで(出家してから日が浅かったらしいし)、オウムがしていることをなーんにも知らなかった可能性が高い(分らないけど)。
しかし、オウム信者であり続けることを選択したなら、オウムがしたことに対して謝罪、反省、償いをするようにと求められている。世間にもう一度受け入れられたいなら、それなりの手続き、しなければならないことがあるんだと。
例えば、中国だけでも1000万人以上の人が日本軍の直接・間接的関わりによって死んだということ。
私はその人たちを殺したわけでもなんでもない。生まれてもいなかった。
では私とは何も関係ないのだろうか。
中国はいつまでもうだうだと文句つけてうっとうしいわね、近頃生意気だわと切り捨てて済むのだろうか?
「ごめんなさい」と頭をさげることだけが謝罪ではない、解散してはっきり責任を取れというようなことをオウムは世間から要求されたわけですが、アジアが日本に言っている事は、ある種、そういうことなんではないかなあ。(1945年までの「大日本帝国」は本当に解散しているのかということが、つまりは問題なんじゃないかと愚考いたしますです。)
過去にしたことを日本が本当に悪いと思っているなら態度ではっきり示してもらおうじゃないのというのが、要するに中国や韓国が言っていることなのでしょう(中国や韓国国内での右がかったナショナリズムの盛り上がりとか、きっと向こうの問題がいろいろ絡んでいる部分もあると思いますけど。)
てな具合に、オウムと日本がいろいろとだぶってしまい、ぐちゃぐちゃと考えた次第です。
「A」はとにかく、いろんなことを問いかけてくる映画でした。
もう少し時間をかけて深く静かに考えてみようと思います。
はるる