この世の痛みにつながって

 RFKのスピーチライターで側近第一号だったアダム・ウォレンスキーは彼だけがJFK亡き後も生き続けた唯一の人だったと後に述べました。

 残りの人々は立ち止まってしまった。彼らは遺物になってしまっていた。残りの人々もちゃんと活動し続けていたし、いろんなことをしていたよ、しかし彼らの内部には何も変化が無かった。まるで何者かが彼らにロボトミー手術でも施したみたいに、何かが取り去られて、止まってしまっていた。彼(ボビー)は成長の新しいプロセスを始めた、ただ一人の人だったんだ。
Robert F. Kennedy 108p


 長い間、Brother Protectorとして生きてきたRFKは、38歳にしてやっと自分自身になっていくプロセスをたどり始めました。
 なにせ、Brother Protectorという題名の彼についての本まであるくらいに、お兄ちゃんを守るためになりふり構わず頑張っていた人でしたからねえ。お兄ちゃんはいいとこどりだし(ーー;)。まあ、いいだんけど。それもJFKの人徳なのであろう。このころのRFKには、人徳はちと足りなかった。

Robert Kennedy: Brother Protector

Robert Kennedy: Brother Protector


 ところで、ボビー・ケネディは言葉の人ではなく、行動の人でした。

 ケネディは自分自身について何か大事なことを言語化することに苦痛を感じていた。彼は流暢にしゃべるタイプではなく、彼にとって言葉とはあまりにも簡単にごまかしがきくものであった。ボビーは行動を好み、人びとが、彼の動機を正当化したり分析したりするために彼にあれこれ尋ねるよりも、むしろ彼が何をしたかで自分を判断してくれるようにと望んだ。RFK 35p

 というわけで、彼が何をしたか(政策ではなく、人間としてどう反応したか)について書かせてもらいます。


 1967年に、上院で貧困問題に関する公聴会が開かれたとき、そういうのが嫌いだったRFKは、公聴会に来ていた、黒人で公民権運動のリーダーの一人だったチャールズ・エヴァース(NACCPの代表)に、直接自分の目で見たいと言いました。さっそく翌日、彼らは最貧困地域だったミシシッピ・デルタに行きます。

エヴァースによると(以下、拙訳)

僕たちは、僕がこれまで見てきた中でも最悪の場所のひとつに入った。(中略)その家にはほとんど天井がなかった。床は穴だらけだった。ベッドは僕の腕みたいな色をした代物だった。僕の腕くらい真っ黒で、レンガでかろうじて崩れないように支えてあったよ。においがあんまりひどいので、吐きそうになるのをこらえるのは大変だった。・・・・・・その家の女性が出てきたけれど、ろくな服を着ていなかった。僕たちは彼女に話しかけ、彼が誰であるか言ったんだ。彼女はただ腕を自分の体に回して「神様ありがとうございます」と言い、それから彼の手を握った。
(小さい子どもが床に座って、ずっとお米の粒をなで続けていた。)
彼のおなかはまるで妊娠でもしているみたいに突き出ていたよ。ボビーはその子を見下ろすと、子どもを抱き上げて、あの汚いベッドに座った。彼は子どものおなかをなでていた。彼は「なんてことだろう、こんなことが起こっていたなんて、知らなかった。どうしたらこの国で、こんなことが許されるのだろう?たぶん、人はこのことを知らないんだ。」と言った。
(ボビーは、その子からなんとか反応を引き出そうとしていろいろやってみた。話しかけたり、やさしく撫でたり、くすぐったりしてみた。その子は一度も彼を見上げようともせず、ただぼんやりと座っていた。)
涙がケネディの頬を伝って流れ落ちていた。彼はただそこにじっと座って子どもを抱いていた。ゴキブリとネズミが床のいたるところにいたよ・・・・・・。それから彼は言った。「ワシントンに戻るよ、何かこのことについてやらなければ。」
アメリカにいる他の白人は誰一人、あの家に入ろうともしないだろう。Robert kennedy and His Times  794〜795pp

 また同じくボビーに同行した弁護士で活動家だったマリアン・ライト(黒人)はこう語りました。

 彼は私がやらなかったことをしました。彼は最も汚くて、最も不潔で、最も貧しい黒人の家に入っていったのです。そして彼は、体がただれて、おなかが栄養失調のためにふくらんでいる赤ちゃんと一緒に座りました。彼はこうした赤ちゃんと座って、彼らに触って、その子たちを抱きました・・・。私はそんなことやらなかった!私はしなかったんです!でも彼はした・・・だから私は彼を支持します。
Robert Kennedy and His Times 795p

  既に十分熱烈なボビーファンだった私が、決定的にボビー崇拝者になった瞬間は、これを読んだときだったと申せましょう。


 1968年の大統領予備選の選挙運動の一環で、お金持ちの子弟の多いインディアナの医科大でRFKが学生に演説したとき、返ってきた学生の反応は冷たい無関心でした。少数の黒人(大学の被雇用者)がバルコニーから「我々にはケネディが必要だ!」と叫ぶと、学生たちは「僕たちはいらないね!」と叫び返しました。

 その後、ボビーと学生たちの質疑応答になったのですが、その際、一人の学生が「あなたがやると公約している新たなプログラムのお金は一体どこから手に入れるんです?」と揶揄気味に訊きました。(馬鹿なヤツ・・・。)
 以下、ニューフィールドの記述。

 「君たちからだ!」ケネディは激しく言い返した。ケネディの顔はいつも彼の気分を映し出す鏡だったが、今のそれは怒りだった、そう、それは、クルーカットの満足しきっているワスプの一群を見回している非情(ruthless)であった。彼はつかつかと学生たちに近寄ると、注意深く組み立てられていたインディアナにおける選挙戦略も忘れて、彼自身の深い内面から話し始めた。
 「ちょっとこうした質問の背景について言わせてくれ。」と彼は始めた。「私はこの部屋を見渡してみたが、医者になるはずの黒人の顔をそんなにたくさん見ていない。・・・文明社会とはゲットー出身者を医学学校に行かせるということだ。私はここでスラム出身あるいは、インディアン居留地から来た人々の顔をほとんど見ていない。君たちは特権階級だ。ここに座り込んで政府が間違っていると言うのは、君たちには簡単なことだろう。しかし、間違いは我々の責任でもあるんだ。間違っているのは我々の政府だけでなく、我々の社会もだ。貧困問題対策費用の2倍のお金をペットにかけているような社会のね。ベトナムでの戦いの重荷を背負わされているのは、貧しい人々だ。君たちは白人の医学生としてここに座っている、黒人がベトナムで戦っている最中に・・・。」
 この時点で、何人かの学生たちは野次を飛ばしブーイングを始めたが、ケネディは軽蔑をこめて彼らを睨み返した。
RFK 256p

 選挙運動に来てけんかしてどうするんだという気もしますが、善悪の基準が明確で短気なボビーの面目躍如ですね。
 マーク・カーランスキーが言ったように、確かに彼は「民衆が聞きたい言葉ではなく、聞くべきだと思うこと」を話した人だと、こういう話を読むと思います。


 1868年にRFKが大統領選に出馬すると、チャールズ・エヴァースは100%の支持を表明し、仕事をやめてボビーの選挙運動のためにカリフォルニアに行きました。
 オレゴンで負けたボビーが、全てがかかっていたカリフォルニアに来てチャールズに会ったとき、彼はボビーに「もしあなたが勝ったら、私への報酬はあなたが私の民(黒人)を忘れないということです」と言いました。それに対するRFKの返事。私はこれをボビーの名せりふと勝手に認定してます。

“I won’t forget,” he said softly. “I want to work for all the unrepresented people. I want to be their President.” RFK 20p

普通の人々は、フレッド・デュートンがいったように感じていた。つまり、彼(RFK)は魂を持ったケネディ家の人間なのだと。人々には分った、もし彼が勝ったら、彼は「貧しき人々のための大統領」になろうとするであろうということが。RFK 83p


まだ続きます。ふふふ(←完全に開き直り状態)。

はるる