『エクソシストとの対話』

 島村菜津さんの『エクソシストとの対話』を読みました。

 

エクソシストとの対話

エクソシストとの対話

 帯には

「悪魔祓い」は実存する  
「悪魔憑き」は真実なのか

 などと書いてあって、なんとなくおどろおどろしい印象を受けますが、内容はしっかりした取材と勉強に裏打ちされて、真剣にエクソシズムとは何か、現代においてそれはいかなる意味を持つのか、ネオ・サタニズムを生んだものは何かといった問いを追求し、最高のエクソシストと言われて現在列福調査中のカンディド神父(御受難会)に迫ろうとしている良書でした。

 
 現代イタリアにおけるサタニズムの背景にあるのは1968年という年です。
「悪魔都市」とまで言われるトリノで増加する(と言っても、マスコミが言うほど大したことないらしいですが)サタニズムの背後にあるのは、階級闘争的側面であり、革命に挫折した68年世代の存在。


 マルクスゲバラも忘れてサラリーマンになった彼らの世直し思想、反逆精神が、いまやオカルトへとその手段を移して闘争を続けようとしている・・・のだそーな。(『エクソシストとの対話』128〜129pp)


 民俗学者チェチリア・ガッタ・トロツキ(ペルージア大学)も

「魔術や新興宗教の分野に、元左派の運動家が多いのは疑いの余地がないわね。ミラノのオシリス騎士団を仕切っているのは元赤い旅団メンバーだし、ラジニーシの副教祖バルカレンディも元学生運動の大物だわ」(138p)

 と言っています。

 日本の全共闘世代はどーなんでしょう?


 このトロツキ博士、自ら新興宗教や魔術師のところに殴りこみをかける行動派の研究者であるらしいですが、研究のため黒ミサにも潜入したことがある由。

 そうした体験を踏まえた上で博士が指摘する問題点は、傾聴に値するように感じられました。

「・・・現代の新興宗教やオカルティストの大半は、本当の意味での唯物論者(マテリアリスト)だと思うの。金銭に貪欲だということだけではなくって、人生の選択なんていう、誰にも手探りな事柄にまで合理的な理屈を求めて、思い通りにならないことも即座に叶えようとする現世利益的な性格。それに、物質とエネルギーの二極に支配された単純な世界観。そうしたもののすべてが、ひどくマテリアリスティックだわ。私には、それらが、宗教本来の魅力である超越性ということから遠く隔たっているようにみえるの。これは神秘主義ではなくて、逆に神秘について考える力の衰退だし、現実を受け入れる能力の低下と見るべきじゃないかとね。」(140〜141pp)


 うーむ、これは日本のスピリチュアルブームにも言える、本質を突いた意見のように思うのですが。


 偉大なエクソシストだったというカンディド神父さんについては、また改めて書くこととします。長くなりそうなので・・・。


 で、今ちょこちょこ読んでいるのが『悪魔という救い』。

悪魔という救い (朝日新書 (098))

悪魔という救い (朝日新書 (098))


 「悪魔祓い」を前近代的な遺物として頭から馬鹿にして退けるのではなく、精神医学や社会宗教学的な観点から「癒し」「救い」としてみようとするもののようです。


 悪魔祓いを扱った映画への言及が多く、それらを読んでいるうちに、特に『エクソシスト』を観たくなってくるのですが、問題は私がホラー映画を大の苦手としていること。こんなもの観たが最後ですよ。


 

エクソシスト ディレクターズカット版 [DVD]

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 昔、『オーメン』シリーズを観て怖かったのを思い出すなあ。(なんで観たんだ?)
 ノベライズ本は古本屋で買って持ってましたが・・・中学生の頃(^^;)。活字で読むと怖くないのだ。(だからって買うか?)

 そういえば、ダミアンの息子がいるという設定のペーパーバックも読んだことがある・・・昔。
 結構、悪魔の息子と言う設定は好きなのですね、私は。これが、「悪魔の孫」(悪魔の息子ダミアンの子だから孫ですよね)となると、途端に怖くなくなってアホらしくなるのはなぜ?


 『オーメン』のパロディである『グッド・オーメンズ』を読んで見たいと思いつつ、なかなか果たせないなあ。


 

グッド・オーメンズ〈上〉

グッド・オーメンズ〈上〉

 

グッド・オーメンズ〈下〉

グッド・オーメンズ〈下〉

 はるる