あるエクソシスト

 カンディド神父さんに関して、『エクソシストとの対話』からの抜書きメモ。


エクソシストとの対話

エクソシストとの対話

(リナ・マイアは語った。)

 「あの人(カンディド神父)は、たぶん世界で一番偉大なエクソシストだった。けれども有名であることになんか何の関心もなかった。それは謙遜で、謙遜で、謙遜の塊のような人だった・・・・・・。あの人のカリスマや名声が、私を癒したんじゃない。あの人は、何もかも灰色だった私のところに、黙ってただ通って、通い続けてくれることで、私を危機から救ってくれたの。」

(中略)

 「私たちは、毎日、テレビや雑誌の記事に一喜一憂するでしょう。あの人は、そんなことにちっとも興味がないふうなの。最後の5年くらいはあ、まるで地上から足が浮いているようだった・・・・・・。いま思えば、亡くなる前に、たった一度だけ、やってくるなりこんなことを言ってたわ。“今朝ね、天に堕ちてゆく夢を見たよ”って」(233p)

 彼女(心臓外科医のデ・マリーニス医師)は看護婦たちにてきぱきと指示する傍ら、熱心に思い出話を聞かせてくれた。
 
 「非常に寡黙な人で、必要な時には、ぼそっと何か一言だけ口にする。その時には何でもない言葉が、数日、数年経って重要な意味を帯びてくるんです。人の心も読み通してしまう。神父と親しかったローマ工科大学のイドーニ・マルパーリ教授もよくおっしゃっていました。“カンディド神父のように人間を理解する能力が私にあれば、僕も今頃、恐るべき名医になれたかもしれないな”って。そういう意味では、神父はエクソシストとして有名でしたが、偉大な告解師だったのだと思います。」

 聖書の中でも、癒しと悪魔祓いとは常に同じ場面で語られる。つまり、その根っこは同じなのだ。エクソシズムの本質もまた、魂の救済にあった。カンディド神父は彼女にも、エクソシズムは告解であり、一人一人と向き合い、その心の声に耳を傾けることだと語った。そして、こうも言ったことがある。

 「その人の心が癒えることが、むしろ病の癒しよりも重要なのだ。」(236〜237pp) 

 85年、当時、コロンブス病院長を務めていた(パオロ・ポーラ)博士は、弟の長男が、治る見込みのない肺癌に冒されていることを知り、(カンディド)神父に相談した。まだ14歳だった少年は、その事態が受け入れられず、魔術に凝ってみたり、家族の手に負えないほど、すっかり心の均衡を失っていた。ところが、神父に出会った瞬間から、少年は動揺を忘れ、周囲も驚嘆せずにはいられないほどの穏やかさで死に臨んだ。こうして、18才で息を引き取るまで、少年は逆に、家族を勇気づけ、計り知れないものを彼らの心に残した。

 「カンディド神父は、人をたった一度の出会いで変容させてしまう。人生を確かな意味のあるものに感じさせてくれる。そういう意識を吹き込んでくれる。そんな力を持った人だった。あんな人は、教授として、医師として、学者として、これまでいろんな人間に出会ってきたつもりですが、彼一人だった。もし、この世の中に奇跡という言葉を使うような現象があるとすれば、私は、それこそ奇跡だと呼びたいくらいです」(249p)


 今、教会が必要としているのは、こういう神父、修道者なのではないかと痛感した次第。

 結局、世の人々は神学よりも、神を、聖人を求めているのだと思う。



 なお、よりコンパクトなカンディド神父についての記述は同じ著者による『10人の聖なる人々』に収められている「カンディド・アマンティーニ」をどうぞ。


 

10人の聖なる人々

10人の聖なる人々



 ちなみに、あの映画『エクソシスト』が公開される前、カンディド神父は、映画の製作者側から試写を見て感想を聞かせてほしいと頼まれて観たそうです。

 

 「それで、神父は何とおっしゃったのですか?」
 「ごらんになって、少女の首が360度回転するといった誇張を除けば、かなり評価なさったそうです」
 「ああいうことは、実際にはやっぱりありえないわけですね」
 「悪魔は人の目を欺くといいます。当事者に、どういう現象が見えるかは、また別問題ですが、しかし、あれでは奇跡のレベルです。悪魔は神の創造物ですから、人間に幻影を見せることはできても、奇跡というものは起こせない。最後に、若い神父が自分に悪魔を乗り移らせて自殺しますが、神学的には、悪魔は司祭を外から妨害することは出来ても、憑依することはできないとされています。神の力をお取り次ぎするからこそ、悪魔祓いも可能なのですから・・・。けれども、それも映画的誇張ということで許される範囲だとおっしゃって、全体的には気に入っていらしたようです」(25p)


 うーん、でもやはり怖くて観られません、『エクソシスト』。


 『エクソシストとの対話』や『10人の聖なる人々』のカンディド神父の章に書かれている、悪魔憑きとされる人々が引き起こす現象、あるいは呪われた人に降りかかる不気味な出来事を読んでいると、きっとあの映画に描かれている奇怪な種々の現象は、カンディド神父さんが実際に体験してきたことに極めて近かったのだろうと想像はしましたけど。


 あ、『エクソシスト』の原作本は読んでしまいました。活字ならなんとかね。
 映像化されて、音楽なんかがつくと、もうだめです。

 

エクソシスト (新潮文庫)

エクソシスト (新潮文庫)

 


 『悪魔という救い』はいま一つ、私にはピンと来なかった。言わんとすることは分かったつもりですが。


 こうなれば、『エクソシストは語る』も読むべき?

 『バチカンエクソシスト』も本棚で読まれるのを待っている(^_^;)。


 

エクソシストは語る

エクソシストは語る

 

バチカン・エクソシスト

バチカン・エクソシスト


はるる