悪魔という存在

 さて、現代社会は神学者も含めて、悪魔の存在を認めたがりません。
 やっぱ、ちょっと抵抗感ありますよね、悪魔がいるてなことを断言するのは。
 
 しかし、歴史学者J・B・ラッセルはこの傾向を批判し、何人もの文学者たちの作品、文章を引用しつつ、悪魔という実存を認めるべきことを語っていきます。(ここが面白い。)

 ペトル・ドゥミトリウ(ルーマニア人の亡命作家)は「現代人が悪魔の存在を否定するのは責任回避」と語った。
 

 決定論的な悪の弁解こそ悪魔の喜ぶ命題である。次に悪魔が喜ぶのは、我々が自分の悪をスケープゴートに投影して、自分の責任を回避することである。罪悪感が強すぎて、恵みと変化の望みにたいして心を閉ざすこともそうだし、悪が複雑になりすぎて解決できず、破壊から愛に転換するという単純な決心ではなく、ややこしい軍備縮小計画つきの核戦争に接近するのもそうである。(347p)

 単純に対して複雑。これは一つの鍵みたいです。
 
 『悪魔の陽の下で』『田舎司祭の日記』の著者であるベルナノスも似たようなことを語っています。

 ベルナノスは、サタンは悪の中核の人格であるとみなしていた。ちょうどイエス・キリストが善の中核の人格であるのと同じように。
 サタンを信じなければ、神を完全に信じることにならないとベルナノスは述べた。(伝統的な考え方だと思います。)

 ベルナノスは、サタンは20世紀になって、神の単純さより悪魔の複雑な知識のほうが現実的だと信じ込ませてしまったと洞察していた。
 人間を破滅から救う、神と隣人への愛は、素朴で単純すぎて、複雑化した経済、交渉、軍備に釣り合わない。

 ベルナノスは、『田舎司祭の日記』に登場する神父に

 「地獄とは愛することをやめることです」(361p)

 
と語らせた。
 
 悪魔は愛を憎悪に逆転させる。
 地球はサタンの冷たい愛の無い光の暗い寒気に包まれており、もしその覆いを突き破る愛がないなら、世界は暗いままである。


 フラナリー・オコナーの小説の主題は、「大部分は悪魔が支配している領土」、すなわち現代の世俗社会における魂における「恵みのはたらき」だった。

 人々が不信仰者であるばかりか、不信仰を美徳として讃えさえする20世紀という時代には、独善の皮はとくに厚い。「今日生きていることは、ニヒリズムを吸い込んでいることである」。それでも恵みはそれを突破するだけの暴力がある。(368p)


 ラッセルは第8章「神と悪魔」という結論の章において、こう述べています。

 キリスト教は聖書と伝統に基づいて、明瞭に悪魔の存在を肯定している。聖書と伝統に反する見解を支持しながら、キリスト教徒であると自称しても意味が無い。

 悪魔の否定から導かれる論理的帰結をきちんと考えようとしている者は少ない。サタンが存在しないなら、悪、少なくとも自然的悪の責任は神にある。それでは、神は完全な善ではなくなるのではないか。(この辺り、どう考えるべきか・・・難しいよー。)

 根源的な悪の理解は、姑息な手段によらず、事態の核心に迫ることを助けるだろう。

 悪魔の概念は、なぜ宇宙に悪が存在するかという問いの解決にはならない。

 この問題の中心は、悪魔のような邪悪な存在者が計りがたいほどの苦しみを作り出す宇宙の創造を、なぜ神が自由に選ぶのかにある。
 
 このような宇宙を自由に選択する神が、果たして責任を逃れ得るのだろうか。もし、神に責任がないのなら、なぜわれわれは悪魔の概念を必要とするのだろうか。

 

 もし悪魔が存在するのなら、悪魔とは何か?もし悪魔の概念になにか意味があるのなら、その悪魔は伝統的な悪魔である。知性と意志をもつ強力な人格で、そのエネルギーは宇宙の滅亡と被造物の不幸に向けられている。

 (中略)

 われわれは正気であるかぎりこの悪と戦わねばならない。悪に対してより大きい悪で、否定にたいしてよりいっそうの否定で、核ミサイルにたいしてもっと大量の核ミサイルで戦うことはできない。否定の過程を逆転させねばならない。肯定だけが否定を克服することができる。善だけが悪を克服することができる。愛だけが憎悪を克服することができる。わたしの書いてきた書物は暗かった。ひるまずに悪の問題に立ち向かおうとわたしは努めてきた。楽観主義で終わることは許されるとおもう。過去に不幸な記録を残してはいても、新しい考えかたを受けいれ、悪を超越し統合する道をさがし、悪の巨大な力を善に転換するために、自由を使う能力がわれわれにはある。われわれがそうするよう励まし加勢する力が宇宙に満ちている、とわたしはおもう。(392p)


 概念の変遷についての心性史的研究書なのに、最後はまるで霊的書物のように終わっております。

 希望なきところに希望を。

 愛することをやめれば、この世は地獄になる。

 はるる